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 電話が震えた。  表示された名前を見て、鏑木洋介は頬をゆがめた。斜め向かいのデスクで眉をひそめる課長に苦笑いを送り、立ち上がりながら画面のボタンを指でなでる。 「ああ洋ちゃん、ひさしぶりい」  耳を離していても聞こえてくる老婆の声は、実家の隣の橋口さんのものだ。どこの国の訛かわからないが、大阪のものではない。 「元気にしとるのお。最近あんまみかけんじゃけどさあ」  声が漏れないように受話口を強く耳に押しあてると、工事の騒音のように暴力的に鼓膜を叩きつけてきた。  課長に「すみません」と口の動きで伝えると、やれやれといった顔でうなずいた。部屋中の視線に気おされるように、体をかがめながら部屋を出る。狭い廊下は声が反響するのでかえって仕事中の同僚の迷惑ではないかと思い、突きあたりまで移動して窓を開ける。そばを通る高速道路の車の音と街の喧騒が湿っぽい熱気とごちゃまぜになって電話を持つ手にまとわりついてきた。  昔はこんなに声の大きな人ではなかったのだが、ここ数年は実家に帰るたびになぜか必ず庭先に出ていて、二軒先にも聞こえるくらいの大声で話しかけられる。 ──歳とって耳が遠なったら、自然と声が大きなるもんやで。  父と二人で住んでいた母光枝はそう言った。口数の少ない母はお喋りの橋口さんとは相性がよいらしく、よく互いの家でお茶を飲んだり、絵手紙教室に一緒に通ったりしていた。十年ほど前に実家を離れた洋介が家に帰ったときには、橋口さんの陽気な声で到着を知り、いつも玄関から出て笑顔で迎えてくれる。その顔にはどこか怖がるような安堵したようなぎこちなさが漂っていて、ああこの表情が昔から嫌だったんだと、今さらながら気付かされる。  母が嫌いなわけではない。ただこの顔を見るたびに、まるでもう二度と息子に会えないという不安を母に抱かせてしまったかのような申し訳なさと、同じ府内に住んでいるのにそんなこと思うなよといういらだちとを感じて、息が詰まるのだった。  その橋口さんとは一ヵ月前に父の葬式で顔を合わせたところなのだが、それでも「ひさしぶり」という時間感覚も歳のせいなのだろうか。 「あのさあ、みっちゃんなんじゃけどさあ」  母の名前を聞いて心臓が大きく脈打った。父の葬儀のあと橋口さんに、「なんかあったら連絡しちゃるからなあ」と電話番号を聞かれていたからだ。
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