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 母が電車に乗って羽衣駅まで来たとすると、考えられるのは昔勤めていた法律事務所だ。昔の記憶が蘇り、遅刻すると思って慌てて出勤したとしたら合点はいく。事務所の正確な位置は記憶にはないが、おおよその場所ならわかる気もする。洋介は走って改札口を出て線路の東側に降りた。道行く人を見逃さないように、目を配りながら小走りで路地に入る。遠い昔に来たことがあるような気もする細い道を、塗り絵を塗りつぶすように歩きながら、道ばたの家々に注意をこらす。  確か母の職場は、普通の家になんとか法律事務所という白い小さな看板が出されていただけのように思う。しかし母の姿はおろか看板も見つけられない。個人の小さな事務所だったら、経営者の弁護士が引退すれば事務所も閉鎖するだろう。母が働いていた頃からは三十年近く経っている。もうここには母の思い出になるようなものはなにもないのかも知れない。それでも諦めきれず、範囲を広げながら同じ道を何度も探した。  いつのまにか日差しが和らいできた。汗に濡れたシャツが体に貼りついている。ボタンを一つはずし、胸元をつまんではためかせながら、シャツのなかに空気を送り込んだ。  ひょっとすると目的地はここではなく、羽衣駅からさらに電車に乗って遠方に行ってしまったのではないだろうか。母が電車に乗って行くところというと、どこがあるのだろう。洋介の今の家か会社だろうか。しかしなんとなく大和川より向こうに母は行かないような気がしていた。洋介のなかではいつまでも母はこちら側の人なのだ。     
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