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「どこいったんか知っとるら」
「え、えっと。どこというと……」
どこへ行ったかと訊かれても、どこかへ行くのかさえ知るはずもない。一人息子だといっても用事がなければ電話をかけることもないのだ。それをわざわざ仕事中に電話をしてきて、この老人はいったいなにを訊いているのだ。
洋介は老婆のとぼけた声に心のなかで毒づいたが、母が世話になっている相手だけに口には出せない。
「さあ、なんも聞いてませんけど。おらんのやったら散歩か買い物にでもいったんちゃいますかね」
「ほっかあ。ならええんじゃけど……」
歯切れの悪い物言いに、いらいらする。
「朝から玄関開いとったんだらあ」
「えっ」
橋口さんの話はこういうことだった。朝の九時頃に庭へ出ると、左隣の鏑木家の玄関扉が開けっ放しになっているのが見えた。不審に思い、靴脱ぎ場に顔を突っ込んで「みっちゃあん」と呼びかけてみたが返事はない。家のなかにまで入ってみるべきかどうか迷ったが、もしもなかで倒れていたりしてはことだと思い、靴をきちんと揃えて上がると、部屋もトイレも風呂場も一個ずつ覗いてみた。しかし母の姿は見あたらなかった。そこで慌てて洋介に電話をかけたのだとい う。
予兆はあった。十年ほど前に洋介が家を出て以来、いつごろからか母の行動はおかしくなってきていた。
三年前の正月の朝に洋介がテレビを観てくつろいでいると、母が何度もリビングと洗面所を行ったり来たりしていた。
「どないしたん」と訊ねると、
「お母さんの歯ブラシ見いひんかった?」と何度も同じところを探している。
「どっかに置き忘れたんちゃう。一回くらい磨かんでも死なへんわ」
お茶でも飲んどきと言うつもりで冷蔵庫を開けると、目の前に歯ブラシが立て掛けてあった。ご丁寧に歯磨き粉とセットにして。
「おおいオカン、なに冷やしてんねん」
母を呼んで見せると、「やだわあ、洋ちゃんたらまたこんないたずらして」と嬉しそうに取り出して洗面所に向かい、冷たくて気持ちええわあなどと言っている。冷蔵庫の前に立ったまま、母の弾むような声に背筋がぞわっと寒くなった。
しかしまだその頃は時々おかしな言動があるくらいで、家事ができない父のために食事も作っていたし洗濯もしていた。定年後は家に引きこもって煙草を吸うか犬のハヤトの散歩に行くしかしない父とは違って、絵手紙教室に週一回出かけてもいた。
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