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 母が急に変わったのは、昨年の初夏に父が脳梗塞で倒れてからだ。リハビリでなんとか杖歩行ができるまでには回復したが、もともと母以上に口数の少なかった父は伏しがちになり、些細なことで激高するようになった。  最初は戸惑っていた母だったが、数ヵ月もすると父の言葉を聞き流すようになった。端から見ていると聞き流すというよりも、聞こえていないか全然知らない国の言葉を耳にしているかのようでもあった。なにを言われても「はいはい」といって全然関係のないことをし続けるのだ。それだけではなく洋介がたまに実家に帰ると、あらかじめ電話を入れていたのに「あれ、なにしに来たん」などと言ったり、冷蔵庫に同じ食材が溜まっていったりするようになった。  洋介はなんともいえぬヘドロのようなものが腹に沈殿していくのを感じていたが、深くは考えずに父との生活のストレスから逃れるための母なりの現実逃避だと思った。いや、思おうとした。  そして一ヵ月前に父が肺炎で急死した。父から受ける精神的負担から解放されて、いずれ母も元に戻るだろう。戻るはず。戻らなければならない。通夜から告別式の間じゅうそんな考えに縋りついていた。火葬場で骨上げの箸を手に虚ろな目で立ち尽くす母の様子を目のあたりにしても、ハヤトのエサや散歩の面倒を見ているうちに気持ちがほぐれて、一ヵ月もすれば活き活きしだすだろうと考えた。しかし葬儀の翌日にハヤトが死んだ。  母はなおさら無気力になって、洋介が訪ねていっても暗い部屋でたたずんでいることが増えた。それでもシンクにはフライパンや食器が置かれているので、料理はして食事も摂っているのだろう。心配ない、心配ないと自分に言い聞かせてそれ以上の可能性から逃げていた。まるで念じさえすれば現実が変わるとでも思っているかのように。
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