再会を約束した店がすでに様変わりをしているのは知っていた

2/15
前へ
/15ページ
次へ
「あら、いらっしゃい」 カウンターの向こう側から、歩美さんが微笑む。 「こんにちは。何の本を読んでたんですか?」 「大したものじゃないの。人生のなんの役にも立たない本よ」 人生だなんて、大げさな。 ふふっ。 歩美さんは微笑むと、優しい垂れ目が細くなる。薄い唇の端が可愛くもちあがる。黒髪が陽光が当たるところだけ明るい栗色をしている。 「コーヒーと本日のパスタのセット」 「パスタは大盛りね」 「はい」 週に一回程度のペースでこのカフェに通った。 大学から最寄り駅の商店街を抜けて、郊外の静かな住宅地の一角、無個性な住宅たちに溶け込むようにこのカフェは立っていた。 一人暮らしのアパートから大学までの通学路のほぼ中間にあって、授業を終えて帰る途中の午後三時すぎに訪れると、カフェには大抵誰もいなかった。 ハンドドリップコーヒーの香りが、小さな部屋に広がって満たされていく。 悪いのは立地条件なのか、建物の外装なのか、時間帯なのかわからないが、人が少なくて居心地がいいこのカフェが僕のお気に入りだった。 「はい、お待たせ」 肩にかからないぐらいの長さの髪が顔にかからないように、耳にかけるように髪をかきあげながら、僕のコーヒーをカウンターに置く。 形のよい、少し冷たそうな歩美さんの耳を、僕は見つめてしまわぬように、理性の感度のボリュームを最大限にして、カウンター越しの奥にある棚を不自然に凝視する。 どうぞ の「ぞ」の吐息に乗って、歩美さんの甘い香りが頬をかすめると、僕の理性の感度は簡単に急降下した。 思わずかぶりつくように歩美さんのほうを振り返ったが、すでにそこに歩美さんはいなかった。 「ゆっくりしてってね」 歩美さんはカウンターへ帰っていった。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加