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「あら、いらっしゃい」
カウンターの向こう側から、歩美さんが微笑む。
「こんにちは。何の本を読んでたんですか?」
「大したものじゃないの。人生のなんの役にも立たない本よ」
人生だなんて、大げさな。
ふふっ。
歩美さんは微笑むと、優しい垂れ目が細くなる。薄い唇の端が可愛くもちあがる。黒髪が陽光が当たるところだけ明るい栗色をしている。
「コーヒーと本日のパスタのセット」
「パスタは大盛りね」
「はい」
週に一回程度のペースでこのカフェに通った。
大学から最寄り駅の商店街を抜けて、郊外の静かな住宅地の一角、無個性な住宅たちに溶け込むようにこのカフェは立っていた。
一人暮らしのアパートから大学までの通学路のほぼ中間にあって、授業を終えて帰る途中の午後三時すぎに訪れると、カフェには大抵誰もいなかった。
ハンドドリップコーヒーの香りが、小さな部屋に広がって満たされていく。
悪いのは立地条件なのか、建物の外装なのか、時間帯なのかわからないが、人が少なくて居心地がいいこのカフェが僕のお気に入りだった。
「はい、お待たせ」
肩にかからないぐらいの長さの髪が顔にかからないように、耳にかけるように髪をかきあげながら、僕のコーヒーをカウンターに置く。
形のよい、少し冷たそうな歩美さんの耳を、僕は見つめてしまわぬように、理性の感度のボリュームを最大限にして、カウンター越しの奥にある棚を不自然に凝視する。
どうぞ
の「ぞ」の吐息に乗って、歩美さんの甘い香りが頬をかすめると、僕の理性の感度は簡単に急降下した。
思わずかぶりつくように歩美さんのほうを振り返ったが、すでにそこに歩美さんはいなかった。
「ゆっくりしてってね」
歩美さんはカウンターへ帰っていった。
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