第29話:愛を知らない人

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***  遠くから靴音が聞こえる。スズは犬耳を出し、ピクピク動かす。そして目を輝かせ、玄関に走る。飛び出した尻尾は激しく振られていた。  玄関の扉が開く。真尋が帰宅したのだ。スズは心底嬉しそうな笑顔を見せた。 「おかえり真尋! 俺、良い子にお留守番してたぞ!」 「……ああ」  真尋はスズに目を向けず、玄関の鍵を閉めて靴を脱ぐ。 「聞いて聞いて真尋! 今日ね、歩いてたらね」 「疲れてるんだ。後にしてくれ」 「あ、うん……。そうだ! 疲れてるなら、パン! あのね、食べてほしいんだぞ! 美味しい美味しいリンゴジャムのね、パン! リンゴしゃくしゃく! 美味しくて疲れがね、ピューンって! 吹っ飛んじゃうかもしれないぞ! 食べて食べて!」 「必要ない。君が食べると良い」 「俺は真尋に買ったんだぞ! 真尋はいつも仕事大変だからね、真尋の疲れ飛んじゃうくらい美味しいのをね、俺が見付けて……あ……」  スズの言葉を無視し、一度も視線を交わさないまま真尋は寝室に入って扉を閉めた。この部屋には入るなと言われている。言いつけを守り、スズは一度も開けた事がない。  スズは笑顔を消してその扉をぼんやり眺めた後、リビングに行ってソファーに横たわる。此処がスズの寝る場所だ。  思い浮かべるのは、昼間に会った銀次や涼。勇太が銀次の主人、旭が涼の主人だということは、流れで分かった。当たり前のように隣に居て、当たり前のように話していた。その当たり前は、スズにとって当たり前ではなかった。  真尋は、スズと距離を取っている。犬から人になることを明かしてから、ずっとだ。犬の姿の時は優しく触れてくれた。なのに今は、目すらろくに合わせてもらえない。真尋の全てが、スズにとっては冷たい物だった。 (……もっと良い子にならなきゃ、追い出される……)  真尋はよく、「追い出されたいのか」と言う。それが冗談で言っていない事を、スズは理解していた。何かあった時、真尋は本気でスズを追い出すつもりなのだ。
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