会いたい

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 左手を少し上げ、重量感のある見た目に反して軽い()け心地のカシオの腕時計を見た。初めて賞をとったときに、姉が贈ってくれたものだ。業界でも知らない人も多いようなちっぽけな賞だったのに、姉は自分のことのように喜んでいたのをよく覚えている。  トンネルの中にいた時間は俺の体感時間とは大幅に異なり、ほんの四、五分程度だった。  方角が変わったからだろうか。外の様子は少し違って見える。なんと言えばいいのか、とにかく薄い。空気も匂いも薄い。風も少なくなったようだ。草花も血色が悪いように見える。実際には草花に血は通っていないのだが、この表現が一番しっくりくる気がした。  身体の奥の方がそわそわしてくる。恐怖と呼ぶほどの怯えを与えるものではないが、心の余裕を確実に奪っていくような何か。この感覚に名前を付けるとしたら何というのだろう。  以前の俺だったらそんなことを考える以前に、すでに頭の中の五線譜に描き始めていたに違いない。この感覚そのものを表現するか、もしくは聴いた者がこの感覚を再現するような曲を。
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