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遍在ちゃん「奮い立つために」
じいちゃんが勃起しなくなってから五年が過ぎた。どうして 僕がそんなことを知っているのかと言うと、五年前、当の本人 が「二人だけの秘密だからな」と耳打ちしてきたからだ。夏休みのある日、いつものように母さんに黙って道路を挟んですぐ向かいにあるじいちゃんの家に遊びに行くと、じいちゃんは一人縁側で爪を切っていた。この光景を僕は月に一度くらいの頻 度で見ることができる。でも、右手の小指の爪を切っているところは一度も見たことがなかった。「爪は一本くらい長いほうが生きていく上で役に立つんだ」じいちゃんはその一本だけ伸びている爪の先で歯糞をこそぎ落としながらよく言ったものだ。畳の部屋に駆けあがると本当はすぐにでも声をかけたかったのだけれど、僕ははたと立ち止まりこちらに気づかないじいちゃんの後ろ姿を黙って見つめた。背中が丸く縮こまっているのは、焦点を足の爪先に合わせようと身をかがめているからでもあり、元から姿勢が悪いせいでもあるのだけれど、その日はそれだけじゃないような気がした。夕日が落とす影はいつもより色濃 く、外から聞こえるヒグラシのカナカナという鳴き声も相まって、なんというか、「ショボン」という漫画の効果音がじいちゃんの身体からこぼれてきそうだった。それで、理由(わけ)を聞いてみたのだ。
「ちんこが勃たなくなったってことさ」
ボッキしないってどういうこと、と僕が聞くとじいちゃんは言 い直した。僕はその時まだ小学二年生で、小学校の保健の授業は 三年生から始まるので、「ちんこがたたない」という言葉の意味がよくわからなかったけれど、ちんこが大切なものであることはお風呂で僕の身体を洗う母さんの丁重な扱いから何となく感じ 取っていたので、じいちゃんは大切な何かを失くしてしまったのだろう、と納得した。でも、じいちゃんの秘密を聞かされて僕が何よりまず先に思ったのは、「じいちゃんにもちんこがあるんだ」ということだ。これは衝撃の事実だった。僕にとってじいちゃん は、「ムーミン谷の仲間たち」でいうところのニョロニョロであったり、おとぎ話で主人公を導くお喋りな木であったりしたからだ。じいちゃんの今にも折れそうな腕は青い血管が浮き出ていて僕の 腕と同じものとは思えなかったし、歯だってほとんど生えていない。基本的には無口で考えていることもわからない。
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