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 教授に本をお貸しするのが好きでした。そしてその本を返していただくのが好きでした。  他人に貸した本は、必ず少し太って戻って来るものです。束の間、仮の主となった人間の習慣や癖を吸い込んでかすかに膨らむせいです。私はそれを醜いと感じ、人に本を貸すのが嫌いでした。けれど教授だけは別でした。 「苺さんはどんな本がお好きなのかしら」  教授に訊かれるたび、私はわざと通俗的、煽情的な恋愛小説を挙げました。賢明な教授は決して態度には出さなかったものの、そんな私の答えを仄かに蔑んでおりました。  そうやって教授に嘲られるのが好きでした。今、この方は、私を俗物だと思っている。そう思うと、なおいっそう、『キス』をわざわざ『接吻』と書くような、そんな夢見がちな小説の話をいたしました。  そのたびに、気高くて慈悲深い教授の内側が荒い紙やすりで擦られる音が聴こえるのです。ごりごり。ごりごり。  ああ、ぞくぞくする。なんて素敵。  それに何より、私は教授が本を読んでいるところをこっそり覗うのが好きでした。私の貸した恋愛小説を、一字一句真剣に味わう教授。目ではなく、耳で言葉を読む教授は、きっと私とは言葉が沁み入る箇所が違うのです。  耳。そう。  盲目の教授は、自分では本を読むことができません。だから教授に本を読んでさしあげるのは、あの方のお役目。  教授の素敵な旦那様。
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