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1、白紙の理由
窓から夕焼けが見えはじめた放課後の職員室。早織は学年主任、川口のデスクに近づいていった。
「川口先生、ちょっといいですか?」
「おや?小宮先生、どうしたんだ?」
そう言うと川口はパソコンのキーボードを叩く手を止め、早織の方を向いた。そして早織に隣の席の椅子を持ってきて着席を促した。ダークグレーの真新しいスーツを身に纏った早織は神妙な面持ちのまま軽く頷き、椅子に座る。
「私、とんでもない失敗をしたかも知れません」
思いつめた表情に重い声。川口は身を乗り出して早織の話に耳を傾ける。
「失敗、というと?」
川口に尋ねられ、早織は重い口を開いた。
「実は私、今日の図画工作の時間、うちのクラスの橋本歩美さんを泣かせてしまったんです」
早織はうつむいたまま、小刻みに震える唇を動かす。
この日の図画工作の時間、早織が2年3組の児童に与えた課題は「思い出の食事の絵を描く」というものだった。誕生日のディナー、楽しかった遠足の日のお弁当、一家団らんのすき焼き、児童は皆思い思いの絵を画用紙に描いていく。しかし歩美には描けなかった。文字通り、一本の線すら、いや、点一つすら描けなかったのだ。
無理もない。歩美には描けるものが一切無かったのだから。
「歩美さんの家はお母さんと2人暮らしのいわゆる母子家庭で、お母さんは工場のパート労働者として働いています。お母さんが家に帰るのはいつも夜遅くて、歩美さんにご飯をつくってあげることもめったにないそうなんです。この間の運動会も、遠足も、みんなが楽しそうに昼ご飯を食べているところ、歩美さんは1人離れた場所でスーパーの半額弁当を食べていました。私はこの点を完全に見落として、本当にデリカシーのない授業をしてしまったんです」
早織は泣きながら川口の前で懺悔した。川口は黙って早織の話に耳を傾けた後、笑顔を作った。
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