いとしばなし

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いとしばなし

 吹き付けるビル風に、三田駈はパーカーのポケットに手を入れて肩を震わせた。  桜はとうに散り、緑の葉が木々を彩る四月も半ば過ぎ。空からは春の陽射しが降り注ぎ、肌を撫でる風は心地よい。とはいえ朝晩は冷えるから上着は手放せないし、駈がいる日影は震えるほど寒い。  その震えるほど寒い中、駈はかれこれ三十分も前から物陰に隠れて待ち合わせのメッカを見張っている。  周りには人、人、人。繁華街の駅前は人で溢れ、待ち合わせ場所を確保するのも容易ではない。近辺地図の前ではモバイルで待ち人と連絡を取り合う女子がいるが、彼女は五分前も同じやり取りをしていた。周りには同じような年代の男女が大勢いて、やはり同じように電話を使っている。雑音が多く、相手の声を聞き取るのもやっとなのだろう、話す声は怒鳴って聞こえる。  駈はモバイルを取り出して時刻とメールボックスを確認した。待ち合わせの十五分前で、時間にうるさいタイプならもう到着している頃だ。モバイルをポケットにしまい、入れ替わる顔ぶれを眺め見た。  駈はオフホワイトのシャツにベージュのパーカーを一枚羽織り、黒いデニムを合わせたどこにでもいる大学生で、溢れる若者に埋もれてしまっていてもおかしくはない。毛先をはねさせた髪型も、愛嬌があると言われる顔もだ。  しまったばかりのモバイルを取り出し、駈は今朝届いたメールを見直した。唸る声は雑音に紛れ、誰にも聞かれず消えていく。  陽射しを遮る壁から顔を覗かせ、溜め息を吐いた。  そもそもなぜこのような不審者極まりない行動をしているのか、駈は数日前バーで受け取ったメモを思い返した。  年上の彼氏と別れたばかりの駈は、同じ嗜好の者が集まるバーで久しぶりに飲んでいた。初めは大学の友人に連れられて来たバーで、駈も気に入ってバーテンダーや常連に顔を覚えられるほどには通った店だ。  その夜は声をかけてくる者はいるけれど知らない人と楽しく飲みたい気分でもなく、カウンターでちびちびとカクテルを舐めていた。顔見知りも来ないし帰ろうかとバーテンダーにチェックを頼むと、いつもの金額が書かれた紙ともう一枚メモを差し出された。
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