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「あそこのお店寄ろうよ」  千景(ちかげ)が道中にそう言い指差したのは、なんとも廃れた喫茶店だった。  シャッターが下りている店ばかりの商店街の中「それが何か」とでも言いたげに営業中のそこは、日に焼けた軒のテントをピンと張っている。赤ともオレンジとも言える微妙な色合いのそれには『喫茶カナリア』と書かれていた。 「え、どうしたの急に」  俺は立ち止まらせた隣の千景にいぶかしげに目をやった。  ピンクベージュのマニキュアを施した彼女の指先が示した喫茶店は、彼女がいつも行くシアトル系コーヒー店とはまったく違う佇まいだ。似合わない。単純にそう思った。  それなのに彼女は俺の腕を掴むと強引に引っ張る。 「いいじゃん、翔ちゃんも喉乾いたでしょ。全然お茶飲めてなかったじゃん」  いたずらっ子のように笑う千景には敵わない。やはり俺の緊張は見透かされていたようだ。 「当たり前だろ。お母さんとお姉さんたちの前でガブガブ飲めるかよ」 「へへ、かっこよかったよ。『お嬢さんを僕にください!』て」 「いや、そんなセリフは言ってなかったろ」  そんな無駄話をしながら彼女──いや、婚約者となった千景と喫茶カナリアへと向かった。  実際俺の喉はまだ乾いていた。プロポーズをした彼女の実家へお邪魔し挨拶をするというビッグイベントをこなしてきたばかりだったからだ。  千景の家族は母親と姉2人の女ばかりの所帯だ。父親は彼女が高校生の時に病気で他界したので、俺は仏壇に飾られた動かぬ彼女の父親に手を合わせさせてもらった。  写真の印象では無骨にも優しそうにも見える。少しだけ上げている唇の端が、かすかに彼を人間らしい温かさがあるように見せていた。  どんな人だったのだろう。ぼんやりとそう思いながら線香の香りに包まれてただ手を合わせた。 「ここね、お父さんとよく来たんだ」  カランとこれまた古めかしい鈴の音を響かせて扉を開けた瞬間、千景はそう言った。千景の背は小さい。どんな顔をして言ったのか俺からは見えず、ただ眉を少し上げて「そうか」と答えるしかなかった。
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