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 その日は、北風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ午後だった。アオはゴム手袋を外すと、両手を擦り合わせ、マスクを下げた。あかぎれだらけの指先にふうっと息を吹きかける。産業廃棄物として出されたゴミの中には、ときどき危険物が紛れていることもあるため、マスクとゴム手袋は必須だった。再びマスクを引き上げ、手袋を装着する。  シオンの屋敷での滞在から、間もなく三ヶ月が経とうとしていた。  工場での勤務は、朝の九時から夕方の六時まで。残業はそのときどきの状況によって違うが、一日を終えると腕を上げるのが億劫になってしまうほど、仕事はきつく辛かった。  屋敷で過ごした日々はすでに夢物語かと思うほどに遠く、アオの前には厳しい現実があった。  リコは、あれからもときどきカイルと会っているようだった。カイルは、自分がリコの”運命つがい”の相手であることを、リコ本人にはまだ話していないようだった。ときどきカイルから差し入れてもらった高級な食材や新鮮な果物が食卓に並んだ。  リコはカイルのことをどう思っているのだろう?  アオ自身は、リコがカイルと会うことについて、何も触れることはなかったが・・・・・・。  アオはマスクの内側で、ほうっと息を吐いた。自分の吐いた呼吸で身体がほんの少しだけ温かくなる。  リコが大人になるまで、あと少し。それまでに、リコが自分のような生活を送らずにすむよう、がんばらなければ・・・・・・。  疲労した身体に、ずん、と重たいプレッシャーがのし掛かかる。この仕事に就いてから、アオは常に身体のどこかが疲弊していた。笑顔が消えた自分のことを、リコが心配していることには気づいていたが、それを気にするだけの余裕はアオにはなかった。  アオの耳にシオンの噂話が入ってきたのは、そんなときだった。その日の勤務を終え、作業着から私服に着替えているアオの後ろで、シオン、という名前が聞こえた気がした。アオが振り返ると、普段アオと同じ作業をしている同僚の男たちが、タバコをふかしながら、一冊の雑誌を見てああだこうだと話をしていた。中心にいるのは、オメガに対して元々嫌悪感があるのか、普段からアオをよくは思っていないらしい三十代のベータの男だった。
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