「零れる」 午後野つばな イラスト:Shiva

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 胸を刺すような痛みに襲われる。  自分はいい。夢を抱くことなど、とっくに諦めた。でもリコは、弟のリコはまだ十五歳なのだ。アオと同じオメガだが、幸いなことにまだ発情期は迎えていない。けれどそれがいつまで持つのだろうか。  アオは、リコにだけは自分と同じような目に遭わせたくなかった。せめてリコだけは・・・・・・。そのためには何がなんでも金がいる。それも大量の金だ。  レジで金を払い、買った食材を買い物袋につめて、アオが店を出ようとしたそのときだった。下を向き、ぼんやりと考えごとをしていたアオは、目の前に人影があることにも気づかなかった。  ドンッという衝撃とともに、アオは道路に転んでいた。通りを歩いていた誰かにぶつかったのだとアオが気づいたのは、買い物袋からこぼれたリンゴが地面を転がっていくのを目にしたときだ。  リンゴはそのまま車道までコロコロと転がってゆく。 「あっ!」  リコのリンゴが・・・・・・!  地面に這いつくばるようにして、アオがリンゴに手を伸ばしたのと、車が通り過ぎたのは同時だった。リンゴはアオの目の前で、ぐしゃりと潰れた。 「あぁ・・・・・・っ!」  アオは呆然と地面に潰れたリンゴを見た。財布の中にはわずかな小銭が残っているだけだ。新しいリンゴは買えない。 「くそ!」  そのとき、ふわりと花の匂いがした。  こんな季節に花など咲いているはずがない。不思議に思ってアオが何気なく顔を上げたとき、車の往来が激しい通りの向こうに、ひとりの男が立っているのが見えた。  美しい男だった。男に美しいなんて表現はおかしいが、ほかにぴったり合う言葉が見つからない。  男もアオに気がついた。その瞳が訝しむようにアオを見て、驚いたように見開かれる。  目が合った瞬間、アオはぽかんと口を開けた。そのときの感覚をなんて表現したらいいのだろう。初めて会ったはずなのに、まるで自分の半身に会ったような懐かしい感じ。  男の青い瞳にも、深い驚愕の色が見えた。なぜだろう、いったいアオを見て、何を驚いているのか。  このとき、アオはなぜか海を連想していた。まるで、宝石を溶かしたような、深い海の底を。その海がすっと細くなり、睨むように冷たくアオを見た。
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