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若い衆に住所を告げて、辰巳はフレデリックの携帯に発信した。けれども電波が入っていないという旨のメッセージが流れるだけで、呼び出し音が鳴る事はない。
一瞬、匡成にも連絡を入れておいた方が良いだろうかと思う。襲撃された車に突き刺さっていた銃弾の数は、相当なものだった。だが、時計が捨てられている可能性も否定できない以上、確認した後でも遅くはないだろうと思い直す。
GPSの示す場所から離れたところで、辰巳は車を降りた。背中には硬い感触がある。あんな車を見てしまうとハンドガンなど豆鉄砲にも等しいが、一丁でも持っているだけマシだろう。
赤い点滅が示していた場所は頭に入れてある。あまり土地勘のない場所ではあったが、辰巳は迷うことなく目的地の近くまで移動を果たした。
ビジネス街のど真ん中にある廃ビル。時間が時間とあって、人通りは少なかった。とはいえど、まったく人通りがない訳ではない。ずっと路地に立ち尽くしていれば変に目立つような場所だ。
ビルの建つ敷地は、防塵用のシートで囲われていた。中に入ってしまえば外からは見えないだろう。だが、同様の理由により、今の辰巳の位置からは中の様子がまったく把握できない。
――まあ、考えるだけ無駄だわな。
人通りが途切れたのを見計らい、辰巳は敷地の中へと入り込んだ。いきなり銃撃されるような事もなく、思わず胸を撫で下ろす。ビルの入り口にドアはなく、ぽっかりと黒い空間が口を開けている。
辰巳はゆっくりとした足取りで入り口へと移動すると、すぐ横の壁に背中をつけて中の様子に耳を澄ましてみた。物音ひとつ聞こえてこない。まるでそこに人などいないのではないかと思える。
ふと視線を下に落として、辰巳は思わず息を呑んだ。地面に、血痕が付いていた。
ゆっくりとしゃがみ込んで観察してみれば、乾ききっていない赤い跡が、長時間放置されたものでない事を教えていた。
だが、妙なのは血痕のつき方だった。それはまるで、ビルから外へ運び出されたように見える。
一瞬それが甲斐のものかもしれないと思ったが、あまり悪い事を考えるのは止そうと思い直す。だが、どうにも妙な事になっているのだけは確かなようだ。
立ち上がった辰巳は、静かにビルの中に足を踏み入れた。人の気配もなければ物音もしない。
背中から鉄の塊を引き抜くと、セーフティーを解除した。だらりと下げた右手に重みがあるだけで、どことなく安心する。
ビルの中は、がらんとしていた。
元はエントランスホールだったのだろう広い空間が広がっていた。床に割れたガラスが散乱していて、一歩足を踏み出しただけで小さな音をたてる。
――これ、人いたら絶対バレんだろ…。
踏み出した足を戻して外に出ると、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。転がっているコンクリート片を持ち上げると、適当な方向に思い切り投げつける。
空間に、音が反響する。だが、それだけだった。人の声がする訳でもなければ銃声もない。
大きく息を吐いて辰巳は立ち上がった。大股でホールを横切り、片っ端から部屋を覗き込んでいく。
そこは、明らかに異常な空間だった。血溜まりや血痕が腐るほどあるというのに、死体がひとつも転がっていない。誰かが運び出したとしか思えなかった。
しかも、そう過去の話でもない。大きな血溜まりに至っては乾ききってすらいないのだ。
――こりゃいったい何人ここに居たんだ? こんな不気味な場所は、テレビゲームの中だけで十分だぜまったく。
上階に移動して三つめの部屋を覗き込んだ時、床に転がる人影を辰巳は発見した。顔の部分が割れた窓から差し込んだ月明りに照らされていて、すぐにそれが甲斐だと分かった。
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、その光景に思わず辰巳の足が止まる。通路とは比べ物にならない血液の量。さすがに切った張ったが得意でも、思わず吐き気が込み上げてくる。
こんな部屋からは、早く出た方がいい。血溜まりに思わず躊躇する足をどうにか動かす。
「甲斐……おい、甲斐ッ」
名前を呼びながら頬を張ってみても、甲斐は何の反応も示さない。ふと思い出して甲斐の腕を見れば、フレデリックに渡した腕時計が嵌められていた。
思わず溜め息が漏れる。いつの間に、フレデリックは甲斐にこれを渡していたのか。
床に散っている血痕と血溜まりがいったい誰のものであるのか、辰巳にはわからなかった。ここで、何があったのかも。あるいはフレデリックは何かを知っているような気もするが、残念ながらここに本人はいなかった。例えいたとしても、聞くだけ無駄なのは承知している。
甲斐の意識はないものの、呼吸はしっかりとしていた。それだけで納得するしかない。
辰巳は携帯で車を回すように告げて甲斐の躰を肩に担ぎ上げると、入り口を振り返ったところで凍り付いた。完全に油断していた。
人影が、入り口に立っている。
自分に向けて突き出されている手が何を握っているのかなど、考えなくとも理解できた。そして、それを向けているのが誰であるかも、辰巳は理解していた。
「フレッド……どう、して…」
それ以上の、言葉が出ない。
異常な空間と、何よりフレデリックの手によって銃口を向けられているという信じられない事実が辰巳の思考を混乱させる。
どうしてそんなものを突き付けられているのか、理解が出来ない。辰巳に疑われる事が、そんなにもフレデリックにとっては許しがたい事だったのか。
「やあ。メールは、見てくれたみたいだね」
穏やかに言って、フレデリックがゆっくりと足を踏み出す。銃口は辰巳に向けられたままだ。
辰巳が返事をする事も出来ずにいると、あっという間に背後に回り込んだフレデリックがクスクスと笑い声をあげた。
「本当に、キミは可愛いね……」
月明りが作る影が、ずっと銃口が自分に向けられている事実を告げていた。
「そんなに怖がらなくてもいいだろう? 僕が、キミを本気で撃つと思うかい? それとも、僕に引鉄を引かせるような何かをキミはしたのかな?」
――怖い。
辰巳は、ただ立っていることしか出来なかった。謝ろうと、そう思っていたのに声を出す事すら儘ならない。
「キミの部下が待っているだろうから手短に済ませようか」
そう言って、フレデリックはホテルの名前と部屋番号を辰巳に告げた。右手に握ったオートマチックを、フレデリックが取り上げる。
「それまで、これは預かっておくよ。心配しなくてもこのビルには僕たちしかいない。安心して甲斐を送り届けておいで」
耳元に囁いて、首筋に口付けられる。トンッ…と、背中を押されて早く行くよう促され、辰巳は振り返る事なくビルを後にした。
乗り込んだ車の中で、辰巳は甲斐が無事であることを匡成に電話で告げた。甲斐の家にそのまま送り届けるように言われ、電話を切る。
未だ目を覚ます気配のない甲斐を見つめて辰巳は小さく息を吐くと、シートに寄りかかって目を閉じた。フレデリックが安心して送り届けろと言った以上、甲斐を追いかけてくる人間はもういないのだろう。
どういうわけか、フレデリックの言葉は信用してもいい気がしていた。
酷く、疲れた。だが、辰巳にはもうひとつ、しなければならない事がある。長い夜になりそうだった。
音もなく開いたドアの先に、フレデリックが立っていた。見慣れている筈のフレデリックの顔がまるで他人のように辰巳には思える。
にこりと微笑んで、フレデリックは辰巳を部屋へと招き入れた。
「甲斐は、無事送り届けてくれたかな?」
「ああ」
「そう。それなら良かった」
そう広くはない部屋に、ベッドと小さなテーブルにソファが二つ。作り付けの執務机がある部屋は、ごく普通のビジネスホテルと変わらない。
だが、その机の上には携帯電話の他に黒い鉄の塊が二つ、無造作に置かれていた。自分の部屋よりも飾り気があるのに、辰巳には何故かこの部屋が酷く殺風景に見える。
辰巳が全身から力を抜くことが出来ないでいるのを見透かしたように、フレデリックが言った。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。僕は、キミに危害を加える気はない」
「そうかよ」
「座ったらどうだい?」
フレデリックが視線でソファを指して、辰巳はそこに腰を下ろした。向かい合ったソファに、フレデリックが座る。
「さて。話をする前に、僕はキミに聞いておかなきゃならない事がある」
「奇遇だな。俺も、先に言っておかなきゃならねぇ事があるんだ」
辰巳の視線は、真っ直ぐフレデリックの目を見ていた。
「……聞こうか」
「甲斐が攫われた時、お前を疑って悪かった」
そう言って、辰巳は頭を下げた。その頭上から、クスリとフレデリックの笑い声が聞こえる。怪訝そうに顔を上げると、フレデリックが困ったように笑っていた。
「参ったなぁ……。そう簡単に謝られるとは思ってなかったよ。本当に、キミは素直で、正直だ」
「素直だったらあんな間違いは犯しちゃいねぇよ」
「素直だから、あの時キミは僕を疑ってると言ったんだろう? 嘘をついて、あしらう事も出来たはずなのにね」
クスクスと笑うフレデリックは、辰巳よりも辰巳のことを分かっているかのようだ。何もかも見越されていて、辰巳は溜め息を吐くしかない。
「ところで、それを僕に謝ってキミはどうするつもりだい?」
「別に、どうもしやしねぇよ。俺が謝りたかっただけだ」
「本当にキミは面白いねぇ。普通は、許しを請う為に謝るものだろう?」
「謝って許される事ばかりじゃねぇんだろ」
辰巳らしくなくどこか投げやりな態度が何を示しているのかは、フレデリックには手に取るように分かる。
「キミは、僕が怒っていると思ってるのかい?」
「そうじゃなきゃあんな事はしねぇだろ」
「銃を、突きつけた事かな?」
応える辰巳の声は低い。
「怒らせたのは俺かも知れねぇが、あんな思いは二度としたくねぇな。怖くて謝る事すら出来やしねぇよ」
「謝る……つもりだったのかい?」
「当たり前だろぅが」
「そう。……キミには悪い事をしたね」
呟くように言うフレデリックを、辰巳は見ようともしなかった。ミシリと、口の中で奥歯が音をたてる。俯いて顔を上げる事もなく、辰巳は問いかけた。
「なあフレッド。お前は、いつからあのビルに居た?」
「……キミが来る、二時間程前から」
フレデリックの答えに、辰巳が小さく息を吐く。
「煙草、吸っていいか」
「構わないよ」
フレデリックがテーブルの上の小さな灰皿を辰巳の前に押しやると、辰巳は上着の中に手を差し入れて煙草を取り出した。その仕草に、フレデリックが困ったように笑う。
いつもなら辰巳は煙草を吸うのに断りなど入れない。それを入れた意味を、理解したからだ。
「そんなに、僕が怖いかい?」
「ああ、おっかねぇな」
あっさりと答える辰巳の声音は、さして怖がっているようには聞こえない。
「今のお前は、俺には別人に見えて仕方がねぇよ」
「僕を嫌いになったかい? ……って、聞いても無駄かな。今のキミは、僕に本音を言えない」
「ハハッ、違いねぇな。俺が本音を言ったところで、今のお前が信じられる訳がねぇ」
たいして吸ってもいない煙草を揉み消して辰巳は立ち上がった。フレデリックが座るソファの肘掛けに片手を突いて、その首を引き寄せる。されるがまま肩口に顔を埋めさせたフレデリックの耳元に低く告げた。
「俺はな、フレッド。お前が思うほど肝が据わってる訳じゃねぇ。だがな、本音くらいは言えるんだぜ? それをお前が信じるか信じねぇかは、知った事じゃねぇがな」
「なら、言ってみればいい」
「本音が聞きたきゃ名を呼べよフレッド。お前はいったい、誰と話をしてやがる」
「ッ……」
不意に腕を緩めた辰巳が、フレデリックの額に自分のそれを軽く当てた。ゴツリと、間近に碧い瞳を真っ直ぐ射貫く。
「フレッドよ。俺ん中から、お前を失くさせんなよ」
そう言って辰巳はソファに戻ると煙草に火を点けた。疲れたように、膝の上に肘を置いて項垂れる。
事実、辰巳は疲れ切っていた。一日に色々な事があり過ぎて、感情の処理も思考の整理も追いついてはいない。何よりも、目の前の男との喧嘩が神経をすり減らしている。
ひたすら名を呼ぶ事もなく、挙句銃口まで突き付けてくるような恋人だ。痴話喧嘩も程々にしておかないと心臓に悪くて仕方がない。
――あー……、駄目だ。コイツ怒らせるとめんどくせぇ……。
二度と、嫉妬はさせまい。しみじみとそう思う。そして、そのまま辰巳は眠った。
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