ヤクザは嗤って愛を囁く。

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 辰巳の指から落ちそうになる火が点いたままの煙草をフレデリックは長い指先で摘み上げると、そのまま自分の口許へと運んだ。立ったまま深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。煙草を咥えたまま辰巳の躰を抱え上げ、ソファからベッドへと移す。無防備な辰巳の寝顔に苦笑が漏れた。いったいどの口が怖いなどと言うのか…。 「辰巳……」  小さく、名前を呟く。ただそれだけでフレデリックは心の中から靄がすっと晴れるような気がした。  ――少し、おイタが過ぎたかな……。明日、謝らなきゃね。  短くなった煙草を揉み消して、フレデリックは眠る辰巳の隣へと躰を滑り込ませた。ゴソゴソとごわつく慣れない服の感触に、小さく舌打ちをしたフレデリックが起き上がる。  余程疲れているのか、それとも安心しきっているのかは分からない。動かしても起きる気配のない辰巳の躰から服を剥ぎ取ってソファへと放り投げると、フレデリックはさっさと自分も裸になって再びベッドに潜り込んだ。  いつもと変わらぬ辰巳の肌の感触に満足そうに微笑むと、フレデリックは静かに目を閉じた。   ◇   ◆   ◇  辰巳が一人の男を伴って部屋のドアを開けると、ソファに座り込む甲斐の姿が目に入った。すぐ目の前に、どこか困ったような顔をしたフレデリックが床に膝をついている。  お家騒動の誘拐事件以降も付き合いが続いている甲斐は、二十五歳になっていた。辰巳が守ってやる必要もない程成長して、今では企業グループを背負って立つ若き帝王だ。  性格と口調は相変わらずのままではあるのだが…。いや、むしろ拍車がかかった部分がある事も否定できない。  今回ある仕事を甲斐に頼まれて出張ってきている辰巳ではあるが、少々気掛かりがあってお節介を焼くことにした。付き合いも長くなれば情も湧くと言うものである。  辰巳への依頼は、オークションへ代理人として行って欲しいという内容のものだった。自分で行けと一度断った辰巳だが、内容を聞いて受ける事にしたのである。  甲斐が欲しいと言ったのは美術品や絵画などではなく、人間だった。  あるジュエリーデザイナーが、どういう訳かオークションにかけられるという。それを競り落とせと言うのである。  甲斐と出会ってからこちら、辰巳は何度か甲斐の依頼で仕事をする事もあったが、さすがに人間を買ってこいというのは初めてだ。父親からその地位を受け継いでからの甲斐は、正直辰巳のようなただのヤクザ風情がおいそれと近付ける立場にはない。  だが、公私を含めての付き合いは今なお続いているし、こうして仕事をする事もある。  その内容は綺麗とは言い難い仕事ではあったが、辰巳の家業を考えれば当然とも言えた。  ともあれ、本来であれば辰巳ひとりでオークションに参加する筈だったものが、訳あって甲斐も会場に来る事になってしまったのだ。どれだけ態度が尊大であろうと、どれほど口が達者で強気だろうと、甲斐のそれが今なお無理をして作られていることを、本人でさえ知らずとも辰巳は知っている。  人身売買などというロクでもない裏の世界を目の当たりにした甲斐がどうなるか、辰巳にはおおよその見当がついていた。その為に、辰巳は男を一人連れてきたのである。  安芸隼人(あきはやと)。恐ろしく整った容貌をしたこの男の職業は、トップモデルにしてホスト。フレデリックが甲斐の番犬と呼ぶに相応しく、この男の世界は全てが甲斐を中心に回っている。甲斐の恋人だ。  辰巳とフレデリックの仲を知って男をパートナーに選んだ訳でもなかろうが、辰巳は僅かばかりの責任を感じてしまう。  フレデリックはといえばまったく気にした様子もない。それどころか随分と男前になった甲斐を口説き、嫉妬した隼人に首筋にナイフを突き付けられるという始末だから手に負えない。それ以来、隼人は甲斐の番犬という事で辰巳とフレデリックの中では認知されている。  船内と言う事もあってさして広くはない部屋を大股で横切り、辰巳は項垂れる甲斐の頭をくしゃりと撫でた。予想通りべっこりと凹んだ様子の甲斐に苦笑が漏れる。  見上げるフレデリックを視線で制して、辰巳は甲斐に告げた。 「甲斐よ。神谷は後で送り届ける。それと、コイツを借りてくぞ」 「ああ」  空返事を寄越す甲斐を気にすることなく、ついでのようにフレデリックを連れていく旨を話して、辰巳は恋人の腕を引いた。あとは、隼人が甲斐をどうにかするだろう。これ以上辰巳が甲斐にしてやれる事はない。  廊下に出たところで、歩きながらフレデリックが口を開いた。時折り挨拶をしながら擦れ違うクルーに微笑みを返すフレデリックは、この客船のキャプテンという職に、今はついている。 「いつの間に隼人を連れてきたんだい?」 「ちょっと前に人を遣って連れてこさせた。甲斐は、綺麗な世界しか知らねぇだろうからな。人身売買なんぞ目の当たりにしちゃあ、そりゃべっこり凹むだろうよ」 「相変わらず、辰巳は甲斐に優しいね」 「あぁん? 嫉妬はすんなよ。お前の嫉妬は心臓に悪ぃからな」  もう十年近く前になるだろうか、フレデリックの嫉妬の怖さを辰巳は身をもって知った。恋人に名前すら呼んでもらえない挙句に血溜まりの中で銃口を突き付けられるなど、辰巳は二度と御免である。  三十八になった辰巳とフレデリックの付き合いは、何だかんだと言って随分続いている気がする。 「辰巳が僕を信じてくれる限り、僕は誰にも嫉妬しないよ」 「あぁそうかよ。お前は裏がありすぎて、信用すんのも一苦労だがな」  吐き捨てるように辰巳が言っても、フレデリックは朗らかに笑うだけだ。こんなところは出会った頃と何も変わらない。  付き合いが長くなっても、辰巳がフレデリックに関して知っている事は少ない。この客船のキャプテンであるという事と、名前と誕生日くらいのものだ。どこの国に住んでいるのかも知らなければ、学歴や経歴なども一切知らないし、聞こうとも思わなかった。  ただ、その長い付き合いの中で、甲斐の誘拐に関する九年前の一件については未だに辰巳の中で消化できていないことがいくつかある。  本人に聞いたところで、もうだいぶ昔の話だし覚えていないと言われるか適当に誤魔化されるのがオチだろうと諦めてはいるが、甲斐と仕事で絡む度にどうしても思い出してしまうのだ。  薄暗い廃ビルの中に残されていた血痕は相当だったが、死体もなければ人影もなかったあの異様な空間は、正直今思い出しても背筋に悪寒が走る。  まるでホラーゲームの世界がそのまま現実に再現されてしまったような光景を、辰巳は未だ忘れることが出来ずにいた。  ――聞いてみるか。  そんな昔の事を掘り返すことに何の意味があると、そう思いはするが、十年近くも忘れられずにいるのも事実だった。甲斐の顔を見る度に思い出してしまうのも、辰巳にとってはうんざりする。  何が出てくるのか、それともただ誤魔化されて終わるのかは分からないが、いつまでもうじうじ悩むのは辰巳の性に合わない。聞くだけ聞いて無駄ならそれはそれで諦めようと心に決めたのだった。  部屋に入り、上着を脱ぎながら辰巳はフレデリックに予定を聞いた。  甲斐の依頼とフレデリックの仕事の都合で、船が横浜に停泊している間この客室を辰巳は押さえている。あとの仕事は若い衆に任せておけば問題はなかった。辰巳の仕事はこれで終わりという訳だ。 「そういやフレッド、お前仕事はどうなってる」 「今日はもう何もないよ。明日は、残念ながら朝から仕事だけどね」  フレデリックの返答に、ふむと頷いて辰巳は携帯を取り出した。二か所ほど電話を掛ける辰巳を、フレデリックは面白そうに眺めていた。  電話を済ませた辰巳の肩に、フレデリックがしな垂れかかる。 「本当に、辰巳はどれだけ優しいんだい? いくら僕が他人に嫉妬しないって言っても、さすがに妬いてしまうよ」  辰巳が電話をしたのは、甲斐の家と、自分のところの若い衆だ。今夜はもう甲斐と隼人が船で寝てしまうだろう事を見越して、着替えを用意させたのである。 「あぁん? 俺が退屈で船を下りてもいいってんなら、断ってやるよ」 「それは駄目だよ、辰巳。僕の楽しみを奪うつもりかい?」 「ハッ、どうせお前は俺が来なくても勝手に来んだろぅが」  言いながらも辰巳はフレデリックの船が日本に寄港する時は、余程外せない用事がない限り横浜まで迎えにやってくる。それは、恋人になるよりも前からの事だ。  辰巳は一言フレデリックに断りを入れて酒を飲み始めた。フレデリックは、船の上では絶対に酒を飲まない。だからといって別に断りを入れる必要はないのだが、辰巳は案外律儀なのである。 「今頃、あの二人は何してるかな」 「さあ、寝てんじゃねぇか?」 「そうかなぁ。というか、甲斐と隼人はどっちがネコなんだろうね?」 「おめぇはどうしてそう下世話な想像をしやがる」  呆れたような目でフレデリックを見やり、辰巳は酒を煽った。 「賭けをしないかい?」 「あぁん? 何のだよ」 「今夜、彼らがエッチをするかどうか」  クスクスと楽しそうに笑うフレデリックに、辰巳は内心で甲斐と隼人を哀れんだ。この男に目を付けられるとこれだから手に負えない。 「お前は、どっちだと思うよ?」 「しない、かなぁ」 「それじゃあ賭けになんねぇだろうが」  辰巳は今しがた、二人は寝てると言ったのだ。両方同じ方に張ったのでは賭けにならない。  辰巳はガシガシと頭を掻いた。 「ったく、だったら仕方ねぇから俺が、するって方に張ってやるよ」 「ふふっ、辰巳は優しいね。でも良いのかい? そんな簡単に賭けて」 「はぁん? お前が言い出したんだろうが。で、いったい何を賭けるんだ?」  そうだなぁと、つかの間考え込んだフレデリックは、とんでもない事を言ってきた。 「もし僕が勝ったら、一度でいいからこの船で辰巳と一緒に世界一周旅行がしたい」 「はあ?」 「辰巳と毎日一緒に居られるなんて最高じゃないか」  想像しているかのように嬉しそうに話すフレデリックに、辰巳が頭を抱える。確かにこの船は街ひとつを移植したかのような規模を誇る客船だが、そこに数ヵ月も居られるかと言われたら、辰巳は自信がない。それが例えフレデリックと毎日会える代償だったとしても。  額を押さえながら呟く辰巳の声は弱々しい。 「どうしてお前はそう、いつも突拍子もない事を言い出しやがるんだ……」 「やっぱり駄目か……。残念だなぁ」 「つぅかよ、お前は仕事があるからいいかも知れねぇが、俺が暇で死んじまうよ」  数日だけでも船の中に籠るというのは結構しんどいと、現在既に思っている辰巳である。溜め息と共に暇で死んでしまうと訴えたものの、フレデリックからの返事は思わぬ方向から飛んで来る事となった。 「何を言ってるんだい辰巳。僕も一緒に旅行を満喫するに決まってるじゃないか。暇なんて言わせないよ?」 「あぁ?」  そんな事が理由なら賭けは成立だと喜ぶフレデリックの横で、辰巳は何も言い返すことが出来なかった。完全に嵌められたとしか思えない。 「僕はこの船でって言っただけで、僕が仕事をするなんて一言も言ってないよ。相変わらず辰巳は早とちりが多いね。……と言うか、むしろ自分から墓穴を掘るところ、昔から本当に変わらないね」  さらりと言い放つフレデリックに、学習能力がないと言われているようで悔しい。悔しいのだが、辰巳には返す言葉もない。 「悪かったな、成長してなくてよ」 「キミは本当に可愛いね、僕の子猫ちゃん♪」  そう言ってフレデリックは、辰巳が何かを言うよりも早くその唇を塞いでしまう。こうなってしまっては、辰巳がフレデリックに敵うはずなどなかった。
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