ヤクザは嗤って愛を囁く。

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 ガシガシと頭を掻いて、辰巳は煙草に火を点ける。 「俺はよ、フレッド。真実が知りたいんであって、謎かけがしてぇんじゃねぇよ。それと、そういう目で見んな。襲いたくなる」 「ふふっ、あれだけ泣き叫んでおいて、まだ足りないのかい?」 「そこに喰い付くんじゃねぇよ馬鹿。本気で殴られてぇのか?」 「そうだね。冗談はこれくらいにしておこうか。時間もあまりないし」  そう言ってフレデリックは時計を見ると、辰巳の手から煙草を奪い去って煙を吸い込んだ。長く紫煙を吐き出した後で、静かに告げた。 「僕が全部殺したよ。死体を運び出したのは掃除屋だけどね。本当は何もないところに甲斐を運んでから辰巳を呼ぶこともできたけど、あの時の僕は、少し投遣りだったから……」  フレデリックが投遣りだったという理由は、もちろん辰巳には分かる。疑われたからだろう。  だがしかし、十人ものチャイニーズマフィアを相手に、ひとりでどうにか出来るものだろうかと、そう考えかけて、辰巳は考えるのをやめた。  ――遣りかねない。  と、単純にそう思った。可能か不可能かなど辰巳の感覚で考えても仕方がない。フレデリックなら遣りかねない。ただ、そう思うだけだ。  あの時辰巳がフレデリックに抱いた恐怖心は、間違っていなかった。ただそれだけの事。  辰巳はフレデリックの手から煙草を奪い返すと、一口だけ吸い込んで揉み消した。煙を吐き出しながら問いかける。 「どうしてひとりで相手した」 「連中を相手にするのは、日本のヤクザは無理だから。力関係が云々じゃなくて、警察に捕まってしまうから、という意味でね。それに、僕はキミを危ない目に遭わせたくないし、人を殺させたくもない」 「お前……」 「一番の理由は後者かな。別にキミがあそこで僕と一緒に人を殺したとしても、警察に捕まる事はなかったからね。これが、この九年間キミがずっと僕に聞きたかった事だろう?」  そう言って、フレデリックは妖艶に微笑んだ。  九年前、あれだけの血痕があったにも関わらず、その後あの廃ビルでの事がニュースになる事はなかった。繋がりのある刑事にそれとなく話を振っても、何の反応もなかったのである。  フレデリックは、チャイニーズマフィアと遣り合った挙句、それを全て揉み消してしまえる人間だという事だ。そんな事が出来るのは、間違いなく真っ当な人間などではない。 「ねぇ、辰巳。それを知って、キミはどうするつもりだい? 知ってはいけない事を知って、ただで済まない事はわかってるだろう?」 「ああ」 「本当に……キミは馬鹿だよ、辰巳」  呆れたような、どこか嬉しそうにも見えるフレデリックの顔を、辰巳は真っ直ぐ見つめた。 「馬鹿だろうが気になっちまったモノは仕方がねぇな。フレッド、お前は十一年前に俺を知りたいと言った。俺がお前を知りてぇと思うのは、いけねぇのかよ?」 「ッ……」 「答えろ。フレッド」  黒く澄んだ闇を湛える瞳がフレデリックの顔を映す。この男は、いつでも真っ直ぐこうして自分を見る。そこには嘘も偽りも、飾りすらもない。  ――敵わないなぁ……。  こんな男に、自分が敵う訳がない。辰巳はフレデリックに敵わないとよく口にするけれど、本当は違う。フレデリックの方こそ辰巳には敵わないのだ。  だってこの男は、全てを飲み込んでしまうのだから。  全部寄越せと言うその言葉の通り、フレデリックのすべてを辰巳は受け入れてしまうのだから。 「っ……本当に、キミって男は……どうしてそう、僕を夢中にさせてくれる……のかなぁ……」  黒く澄んだ瞳の中で、俯いた顔から雫が落ちる。  フレデリックが音もなく立ち上がると、ずっとクッションの影に潜り込んでいた左手が露わになった。その手に握られたオートマチックに、辰巳の黒い瞳が向けられる事はなかった。  辰巳はずっと、フレデリックの顔だけをじっと見つめたままだ。 「知ってた……のかい?」 「ああ」  短く答える辰巳に、フレデリックは左手の人差し指に力を込めた。サプレッサーが装着されていてもなお破壊的な音を立てて、撃ち抜かれたクッションから羽が舞う。 「ッ危ねぇな。冗談でも撃つんじゃねぇよてめぇ、おっかねぇだろうが」  これが、銃を持った人殺しを目の前にして言う台詞だろうかと耳を疑いたくなる。けれど辰巳は、そういう男なのだ。 「辰巳。キミは本当に、真っ直ぐで惚れ惚れするよ」 「あぁん? 当たり前だろうが、殺されたっててめぇにだけは本音しか言わねぇよ、フレッド」  顰め面で吐き捨てる辰巳を、フレデリックが押し倒す。その目にはもう涙の跡などどこにもなかったけれど、辰巳がフレデリックの涙を忘れる事はないだろう。   ◇   ◇   ◇  小さな電子音を時計が告げて、フレデリックはらしくなく苛立ったように鋭い舌打ちを響かせた。辰巳の首筋に食らいつくように埋めていた顔をあげて、大きく長い息を吐く。  腕の下で、辰巳があえかな吐息を漏らす。その僅かに開いた唇に口付けを落としてフレデリックは辰巳のナカからずるりと屹立を引き抜いた。 「っぅ…ぁ…」  小さく喘ぐ辰巳の髪をフレデリックは名残惜しそうにひと撫でして立ち上がると、そのまま浴室に入った。  手早くシャワーを浴びて、クロゼットから引っ張り出した真っ白な制服を身に纏う。 「今日ほど僕は病人になりたいと思った事はない!」  今しがたまで辰巳を元気に組み敷いていたフレデリックが口にするには些かならず呆れる台詞だが、まあ要は仕事に行きたくないのだろう。 「あぁ……? クッ、何だよそりゃ……ガキか…」 「クビになってもいいから辰巳と居たい…」 「これ以上、お前と一緒にいたら……俺の身がもたねぇよ、……阿呆」  午前四時。フレデリックの朝は早いのだ。  一部の隙もなく制服を身に着けたフレデリックを、辰巳は寝台に横になったまま見上げた。男前なその姿に、少しだけ甘えてやるかと、そう思う。 「煙草、吸いてぇな」  辰巳をちらりと横目で見て、フレデリックがクスリと笑う。その顔はとても嬉しそうだった。  テーブルの上に放置された煙草をフレデリックは一本抜き出した。火を点けてから辰巳の唇に差し込む。  旨そうに煙草をふかす辰巳に問いかける。 「辰巳、キミの部下が到着するのは何時だい?」 「九時」 「了解。その時間に、起こしに来るよ。それまでゆっくりおやすみ、僕の可愛い子猫ちゃん」 「ったく、本当にお前はよ……。行って来いよ、俺の可愛いゴシュジンサマ?」  そう言って煽っておきながら、思わず飛びつきそうなフレデリックを辰巳は煙草を持った手を差し出して牽制した。 「きっちり仕事して来い。俺は逃げやしねぇよ」  渋々といった態で部屋を出ていくフレデリックを見送って、辰巳は長い息を吐いて起き上がると煙草を揉み消した。  床に散乱したクッションの残骸が視界に入る。昨夜、辰巳が浴室から出た時にはもう、フレデリックはそこに座っていた。  ――本当に、おっかねぇ男だよなぁ……。  音もなく立ち上がったフレデリックの左手に握られていたオートマチック。あれは、辰巳が浴室から出る時にはもうフレデリックの手の中にあった。それには辰巳も浴室を出た瞬間から気付いていた事だ。  俗にマフィアと呼ばれる組織には、沈黙の掟というものが存在する。匡成が以前、自分たちには知れない事だと言ったのはそれが理由だ。  時には血の掟とも呼ばれるそれは服従と沈黙を厳しく命じるもので、破れば凄惨な制裁を受けるという。  フレデリックの素性を聞けば、自分は殺されるかもしれないという恐怖はあった。もしフレデリックが本当にマフィアだったとして素性を明かしてしまったら、その掟に背くことになる。もしくは、それを回避するために素性を明かした相手を消してしまうという方法もあるだろう。  だからこそ辰巳自身もフレデリックの素性については詮索しないようにしていたのだ。  それでも、知りたいと、辰巳はそう思ってしまった。 『僕は辰巳の事を知っているけれど、辰巳は僕の事を何も知らない』  まったくもってその通りだった。そして自分は、それが嫌になったのだ。殺されるかもしれないと分かっていてもなお、フレデリックの事を知りたいと思った。  辰巳はフレデリックが何者でもよかった。それは事実だ。今更フレデリックがどんな人間であろうと失くしたくないという気持ちは変わらない。たとえそれが人を殺めた事がある人間だったとしても、自身の家業を考えれば気持ちの妨げになるものではなかった。  まあ、フレデリックの方は辰巳に人を殺めさせたくないと考えているようではあったが。所詮そんなものは綺麗事だ。  フレデリックに危害が及ぶとなれば辰巳は躊躇う事無くその相手を殺すだろう。 『本当に、キミは馬鹿だよ…辰巳』  フレデリックの言う通り、自分はきっと馬鹿なのだろう。それは辰巳自身も思う。だが、九年前のあの夜にも自分は逃げたのだ。”知る”事から。二度目はない。 『馬鹿だろうが気になっちまったモノは仕方がねぇな。フレッド、お前は十一年前に俺を知りたいと言った。俺がお前を知りてぇと思うのは、いけねぇのかよ?』  辰巳の言葉は紛れもない本心だ。けれど果たしてそれは辰巳とフレデリック、どちらか片方の、あるいは両方の命を賭けてまで知る必要があっただろうか。  昨夜の、フレデリックの涙が脳裏を過ぎる。たった数粒だけ落とされた大粒の涙。そこに込められた想いは、どれほど重いのだろう。  辰巳にはフレデリックが流した涙の意味は分からない。だが、涙を流させたのは自分だという自覚だけはある。  嬉しかったのか、あるいは怖かったのかもしれないと、そう思ったところで辰巳は何となく腑に落ちてしまった。  フレデリックは、不意に寂しそうな顔をする。それは、自分を受け入れてもらえない恐怖心からくるものかもしれない。  それは裏を返せば、嬉しいという事でもある。十一年前、辰巳がフレデリックに”知りたい”と言われて嬉しかったように。  ――まあ、そのうち揶揄いがてら聞いてやるか。  辰巳は小さく嗤いながら腕を伸ばして脱ぎ捨てられた服から財布を抜き出すと、中から一枚の紙を摘まみ出した。財布を放り投げる。  薄く皴の残る一枚のカード。辰巳はごろりと寝台に仰向けになってそこに記された文字を指先で辿った。顔の前に持ち上げていたそれを額に乗せて、辰巳は静かにその目を閉じた。   ◇   ◆   ◇  港を離れる大きな船を辰巳が見上げれば、小さな人影が制帽を手に軽く一度だけ腕を振るのが見えた。白い制服に身を包んだその男がフレデリックである事は、顔が見えずとも分かる。  辰巳は火の点いた煙草を持つ手を一度上げて返事をすると、その先に広がる海をぼんやりと眺めた。
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