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「楽しかったよ。ヴァイオリンのレッスン。」
そういえば、彼女の様子を見るものでもなく、一人で語っていた。それはいけないと、彼女を見るものの、私から顔をそむけ、車窓からの景色を見ていた。心の裡を見図られたか。聡明な人だ。もう、彼女のお宅にお邪魔することはなくなるに違いなかった。そもそもは、ヴァイオリンだった。独り暮らしともなれば、自分の時間が持てるし。ただ、家主に相談すると遮音の措置を自身で施してほしいと言われた。だが、そんな工事費、とてもじゃないが工面できない。彼女に、その梗概を話したところ、だったらうちで練習しないか、心配ない遮音の措置はしているからと言ってくれた。
そうして、ヴァイオリンを練習するために、彼女のマンションに行くのだが、あたかもレッスンさながらに、彼女が師となって、進められた。そこは、私と彼女だけの空間でもあったが、ただ、存するのは、彼女へのレスペクトにほかならい。やはり、あの響きの美しさと技術だけに。封建社会の騎士が、主君の奥方に懐いた想いと似通ったものだ。そう、一線を越えないという。だが、もどかしくもなく、充足感に満ちていた。
「イザイの無伴奏が、また、聴けたら…。」
彼女は、ながらく開いていなかったリサイタルを催した。こうして人前で演奏を披露しようと思えるようになったのも、少なからず、私との一連のことが相関すると思いたかった。だが、一方で、これが、単なる自分の思い過ごしではないかとも考えた。私とのおしゃべりで、屈託のない笑みを浮かべる様子に作為が感じられず、かえって、そう意味づけする自分に、彼女への羨望があったのでは思う始末となった。白斑になったからといって、決して、笑いを失った訳ではないだろうし。
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