act.00 ”prologue”

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act.00 ”prologue”

 世界中の名だたる豪華客船の中でも、名実ともに最高峰との呼び声たかい大型客船『Queen of the Seas(クイーン・オブ・ザ・シーズ)』、その船内。  プールサイドに並ぶビーチベッドのひとつに引き締まった躰を横たえて、辰巳一意(たつみかずおき)は今日何度目かの溜息を吐いた。  通りがかる女性が「Hi」と軽く手をあげて挨拶していく。それに笑顔で応えている男は、名をフレデリック(Frederic)という。  こういうやり取りを見ていると、フレデリックが外国人であることを実感する辰巳だ。まあ、日本人でも友好的な人間であればこの程度の挨拶くらいは軽くこなしはする。つまり、辰巳が個人的に苦手なだけの事ではあったが。  フレデリックはフランス人だが、普段から流暢に日本語を話す。おかげでフランス語など一切話すことが出来ない辰巳でも意思疎通に困る事は皆無だ。他にもフレデリックは、大型客船のキャプテンという職業も相まって数カ国語を話すことが出来る。それは、辰巳の前でも実証されていた。  とにかくフレデリックという男は目立つ。と、辰巳は自身を棚に上げてそう思っている。正直なところを言えば、辰巳とて似たようなものだ。体躯の大きさも、その身に纏う存在感も、たいして変わりはしない。  辰巳一意、三十八歳。身長、百八十八センチ。体重、七十二キロ。  黒髪に黒く深い闇を湛えた瞳は日本人独特のものだが、その体躯は日本人離れしたもので、惚れ惚れする程に美しい筋肉を纏っている。  ヤクザの跡取り息子であり、本人もその家業に身を置いている事もあって些か強面である事は否定しないが、その容貌はとても整ったものだった。  フレデリック。略称はフレッド、三十八歳。身長、百九十一センチ。体重、七十七キロ。国籍はフランス。  金糸の髪と碧い瞳は天然のもので、現在休暇中だが普段はこの大型客船『Queen of the Seas(クイーン・オブ・ザ・シーズ)』のキャプテンを務めている。  柔らかな微笑みは見る者を思わずうっとりさせてしまう程に魅力的だが、中身はマフィアだ。その肉体には無駄なものなど一切ない。  そんなふたりが並んでその美しく引き締まった裸身を惜しげもなく曝していれば、人目を惹くのは当然の事ではあった。そしてこのふたりは、何を隠さずとも恋人同士である。  かれこれ付き合いは長く、少しだけふたりの馴れ初めを語るなら、話は十一年前にまで遡る。  きっかけは、辰巳が地回りの帰りに路地で絡まれていたフレデリックを拾ったことだった。そしてその日に、辰巳は告白されたのだ。  一目惚れだと、そう言って。  お互い男であるという事実はさて置き、紆余曲折あって恋人という仲になったまではよくある話だろうが、このふたりには少々問題が起きた。  先にも記述の通り、フレデリックはマフィアなのである。  辰巳がそれを知ったのはつい数か月前の事だったが、言うなれば国は違えどご同業という訳で、これといって気にする事ではなかった。はずだったのだが…。  いくら当人同士が気にしなかろうと、しつこいようだがフレデリックはマフィアなのである。  辰巳に素性を明かした事で少々問題が起きている。ついては本人を連れてこいと上層部が言っているから一緒にフランスに来て欲しい。と、呼び出しを受けた。  聞いた時には驚きもしたが、予想はしていたし異論もない。フランスなど遠い所まで出向かなければならない手間はあるが、それもフレデリックのためならば断わる理由はなかった。  目的地であるフランスに赴くため、今ふたりはこうして豪華客船での船旅を満喫しているという訳である。  だが、この船がフランスの港に寄港する事はなかった。最終地は、イギリスのサウサンプトンである。フランスへは、そこから飛行機で移動の予定だ。  面倒を言わずに直接飛行機で行けばいいとは思うのだが、わざわざ船旅となった経緯は『辰巳と一緒に世界一周旅行がしたい』という、すべてがフレデリックの我儘に起因していた。  麗らかな日差しが差し込む全天候型のプール。並んだビーチベッドに寝そべり、フレデリックは先ほどから胡乱げな視線を寄越しつつ溜息ばかり吐いている恋人を見た。  この日、プールに行こうと言い出したのはフレデリックだったが、出不精にもかかわらず辰巳の反応は意外にも好感触だったように思う。それなのに、辰巳はビーチベッドに寝そべるばかりで一向に泳ぐ気配はない。 「泳がないのかい?」 「そうだな…、たまには泳ぐのもいいかも、なっ」  言い終わると同時に腹筋がぐっと締まり、辰巳が躰を起こす。何気ない足取りで歩いていくと、その身を水中へと投げ込んだ。  僅かな水飛沫をあげて、水面が辰巳の躰を受け止める。  うっとりとその様を見つめていたフレデリックは、思い立ったように立ち上がると辰巳のあとを追ってプールへと飛び込んだ。  緩やかなストローク。だが、フレデリックが腕を動かすたびに滑るように躰が水中を進む。あっという間に辰巳の隣に並んだフレデリックは、水中で辰巳の下に潜り込んだ。  驚くように目を見開く辰巳の躰を持ち上げる。  ザッと派手な水飛沫をあげて、大きな躰が水中から顔を出す。 「ッ!!」  辰巳は、自分の意思とは関係なくシャチか何かのように宙を舞ったのち、盛大な水飛沫をあげて再び水中に沈みこんだ。  体勢を立て直した辰巳がザバッと勢いよくその場に立ち上がれば、既にフレデリックがクスクスと笑い声をあげている。 「フレッドぉ……てめぇガキみてぇな事してんじゃねぇよ」 「あっはははっ。一度、やってみたかったんだ」 「ったくお前はよぉ……」  突如ひと気のないプールで繰り広げられた光景に人だかりができ始める。だが、ふたりにはそんな事はどうでもよかった。  ほんの僅かばかり高い位置にある金色の頭を引っ掴んで辰巳が水中に沈める。フレデリックは、あっさりと水中を泳いでそれを躱してしまった。  まるで子供のようにバシャバシャと水飛沫をあげながら、辰巳とフレデリックが戯れ合う。  三十八にもなってプールで大騒ぎなど……と、思うかもしれないが、正直このふたりには羞恥心などというものはない。自分たちが楽しければ、それでよかった。  プールサイドは別として、プールの中は他に泳ぐ者もなく貸し切り状態だ。これを愉しまない手はない。  辰巳とフレデリックはひとしきり追いかけっこやらを愉しみつつ、泳ぎ戯れ合い、身体能力の高さを周囲に見せつける事となった。  水中から顔を出したフレデリックが辰巳の肩に腕を回して笑う。それはもう無邪気に。 「まったく、こんなにプールではしゃいだのは子供のとき以来だよ」 「俺もだよ阿呆」 「やっぱりキミといると、とても楽しいね」 「たまには騒ぐのも悪くねぇな」  その後も周囲の視線など気にする事もなく、辰巳とフレデリックはプールでの時間を愉しんだ。体力的にも体格的にも身体能力も、このふたりはその辺の同世代の男性などより遥かに勝っている。この程度の運動ではまだ足りないくらいだ。  プールサイドへ上がる。  シャワーを済ませた辰巳がジムのラウンジへ移動すると、フレデリックは既に待っていた。ソファへと腰を下ろした辰巳の目の前にミネラルウォーターのペットボトルが差し出される。  喉元を上下させて水を飲む辰巳の姿を、フレデリックが横目でじっと見つめていた。  一気に水を飲み干した辰巳が、空になったペットボトルでフレデリックの頭をパコンと叩く。 「見過ぎだタコ」 「僕がキミに見惚れるのは、いけない事なのかい?」 「お前は本当に素直だな」  言いながら苦笑を漏らして辰巳が立ち上がると、つられたようにフレデリックも立ち上がる。 「腹が減った。飯食いに行こうぜ」 「何を食べようか」 「焼き魚が食いてぇな」  辰巳がそう言えば、フレデリックはにこりと微笑んでエスコートするように少しだけ前を歩きはじめた。  街ひとつを移植したような規模を誇る大型客船『Queen of the Seas 』。辰巳は一度この船で数日を過ごした事があったが、その時は仕事を兼ねていて船内を見て回る事はなかった。こうして改めて歩いてみると、その規模に驚かされる。  ふたり並んで歩きながら、フレデリックは辰巳を見やって呟いた。 「辰巳とこうしてこの船の中を歩けるのは、とても幸せだよ」 「お前の家は、随分でけぇな」  辰巳の言葉に、フレデリックが思わず立ち止まって振り返る。その目は驚いたように見開かれていた。 「何をそんなに驚いてやがる?」 「辰巳が、この船を僕の家って言ったから」 「はぁん? 陸地にいるよりお前はこの船の上にいる方が長ぇだろうからな」  さらりと告げられる辰巳の言葉は、時にこうして凄まじい破壊力を発揮する。  まさしく、フレデリックにとってこの『Queen of the Seas 』は家だった。そしてクルーは仲間であり、家族だ。  船乗りでも何でもない辰巳に、まさかそんな事を言われるとは思ってもいなかったフレデリックである。  フレデリックが、再び歩き出す。 「本当にキミは、僕を夢中にさせてくれるね」 「ああ? 意味わかんねぇな」 「キミの言った通り、この船は僕の家だからさ。そこをこうして辰巳と並んで歩けるのが、僕はとても嬉しいんだ」  フランスへの渡航が決まった際、どうして飛行機ではないのかと問う辰巳にフレデリックは『辰巳と一緒に世界一周旅行がしたい』と言った。だが、それは違っていたのだ。  その意味を、辰巳はようやく理解した。  最初、フレデリックは『辰巳と一緒に世界一周旅行がしたい』と言っていたはずではなかったかと思い出す。その時、ふたりはこの船の中にいたのである。 「阿呆。だったら素直にこの船で旅がしたいって言いやがれ」 「言ったよ。最初にね」 「ったく、だから意地が悪ぃっていうんだよ」  言いながら、辰巳はフレデリックの首に腕を回して締め上げる。じゃれ合いながら船内を歩くふたりを、擦れ違うクルーたちがにこやかに笑って通り過ぎて行った。もはや家族公認の仲である。  辰巳の父親である匡成(まさなり)も、ふたりの関係は知っている。時折り辰巳に「お前はネコなのか?」などと言って揶揄いはするが、咎められた事は一度もない。そう思えば、ふたりには何の障害もなかった。  まさしく順風満帆。海の上を滑る『Queen of the Seas』の如く、今のふたりには追い風しか吹いていない。  人目も憚らず戯れ合いながら歩く辰巳とフレデリックは、この時すっかり忘れていたのである。自分たちがどれほどトラブルに好かれているかという事実を。まして自分たちが、平和で退屈な日常とかけ離れた世界に生きているのかという現実を。  辰巳とフレデリックの船旅は、まだ始まったばかりである。
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