act.02 ”Modest happiness”

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 辰巳が何気なしに空を見上げれば、そこには満点の星空がどこまでも広がっている。普段東京にいる辰巳にとって、もちろんそれは初めて見る光景だった。海上で遮るものが何もない。こんな場所でずっと空を見上げていると、平行感覚すら失いそうになる。 「星が凄ぇな…」 「もう少し後ろに行けば、もっと綺麗だよ。ここは明るいから」  微笑みながら言うフレデリックに、視線を前方に戻して辰巳は溜め息を吐いた。フレデリックと出会わなければ一生こんな経験をする事はなかっただろう。  板張りの甲板を歩く二人の足音だけが響く。とても静かで穏やかな時間だった。  時間が遅いせいか他に人はなく、まるでこの船の上に二人だけしかいないような錯覚に捕らわれてしまいそうだ。  船の最後方にあるデッキに到着すると、辰巳は子供のように手摺から身を乗り出して海を眺めた。その様子に、フレデリックがクスクスと声をあげて笑う。  その声に、辰巳は手摺に背を預け、寄りかかるようにして振り返った。 「ガキで悪かったな」 「ふふっ、僕はまだ何も言ってないよ?」 「思ってんだろぅが」  辰巳の横までやって来て、フレデリックは手摺に片手をついた。今にも触れそうな程に近い距離。月と無数に輝く星だけがふたりを見下ろしていた。 「辰巳らしいと、そう思ってた」 「何だよ俺らしいって」 「僕はね、辰巳をここに連れてきたらどんな反応をするだろうって、いつも考えてた。この船のどこにいる時でも、僕はそんなことばかり考えてたんだ。だから、辰巳らしい」  さらりと言ってのけてフレデリックが微笑む。  どうしてこう、この男は恥ずかしげもなくそんな事が言えるのかと辰巳の方が思わず赤面する。辰巳は片手を額にやって熱くなった顔を隠すように俯いた。 「……聞いてるこっちが恥ずかしくなってくる」 「伝えられる時に伝えておかないと後悔するだろう? 特に、僕たちはさ」 「俺は、お前ほど素直にはなれねぇよ。だが、確かにそうなのかもな」  辰巳もフレデリックも、いつ何があってもおかしくない家業ではある。だがそれは、家業にかかわらず誰にでも言える事なのかも知れなかった。  フレデリックの言う事は至極尤もだ。あまり、考えたくない事ではあるが。  失った相手に、何かを伝える事は出来ないのである。  辰巳は家業のいざこざで母親を失っている。別段伝えそびれた事があった訳でもないが、それ以来辰巳は友人すら作らずに生きてきた。フレデリックと、出会うまでは。  お前は失って後悔した事があるのかとそう問えば、フレデリックはあっさりと否定を返した。  意外そうな顔をする辰巳に、フレデリックは微笑んだ。 「まあ、失ったものはあるけれど、後悔はしていない、っていうのが正解かな。でも、それが辰巳だったら絶対に後悔するだろうなって、そう思ってる」  フレデリックの言葉に、辰巳は手摺に寄り掛かったまま夜空を見上げる。そもそも、大事なものを最初から作らない事で辰巳はそういった後悔をしないようにしてきた。  だが、今はフレデリックという恋人がいる。  自分は後悔するだろうかと、そう考えようとして、辰巳は考えるのをやめた。視線をそのままに口を開く。 「俺は、俺もお前も失くす気はねぇよ。後悔するかもなんて考えるだけ無駄だ」  辰巳は、フレデリックに『お前を失くしたくない』と言って告白したのだ。それなのに失くした時の事などを考えるような性格をしてはいない。  あっさり言い放つ辰巳に、フレデリックは声をあげて笑った。 「本当に、キミはいつでも真っ直ぐだね辰巳」 「俺は、俺より先にお前を失くす気はねぇからな。言えなかったなんて後悔はしねぇよ」 「うん? という事は、やっぱり僕はちゃんと伝えておかなきゃいけないじゃないか」 「おう、よくわかったな。俺は言わねぇけどな」  狡いと、そう言って拗ねるフレデリックに辰巳が笑う。満点の星空の下に二人の笑い声が響いた。  額を寄せ合うようにしてひとしきり笑った後で、そろそろ戻ろうかとフレデリックは手を差し出した。 「ばぁか。そういう事は、女にするもんだろうが」  辰巳は差し出された手を軽く叩くと、手摺から躰を離した。フレデリックの肩に腕を回す。  まるで酔っ払いのようにフレデリックに寄り掛かるようにして、辰巳は嗤いながら言った。 「悪いなフレッド。俺は手ぐらいじゃ足りねぇよ」 「ごもっとも。まったく、キミには敵わないね」  月と無数の星が見下ろす広い甲板に、重なったふたりの影が落ちて密やかな笑い声が響いた。
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