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act.11 ”Free fight”
その日、辰巳とフレデリックのふたりの姿は、ニースの市街地にあった。約束通りアドルフの家を訪ねた帰りである。
フレデリックの母親はとても美しい女(ひと)だった。フレデリックと大して変わらない体躯の辰巳に多少の驚きはあったようだが、それだけだ。
フレデリックの母親は辰巳の目の前に立つと、その頬を両手で挟んで優しい目をしていると言った。女性に、しかも母親のような年の女にそんな事をされた経験がない辰巳はおおいに慌ててきたところである。
一晩くらい泊って行けとアドルフに誘われたものの、ちょうど仕事で出掛けていたクリストファーから観光がてら飲みにでも行かないかと誘われて出てきたのだ。
まだ夕日が落ちようかという時間帯で、街も賑やかである。並んで歩いていれば、フレデリックが唐突に口を開いた。
「うーん…新鮮だなぁ」
「あん? 街が、か?」
「違うよ。普段と違う姿の辰巳も男前だなって、そう思ってね」
確かに、市街地をぶらぶらと歩く辰巳とフレデリックは、普段よりは幾分かラフな格好をしていた。
辰巳などは日本に居てもスーツが普段着のようなものである。フレデリックも『Queen of the Seas』にはドレスコードが設けられているため、制服以外でもフォーマルな格好をしている事が多い。そして、部屋ではほぼ全裸がお決まりのふたりである。
十一年付き合っているといっても、お互い見慣れない格好であることは確かだ。
「つぅか選んだのお前だろうが」
「服を選ぶのがこんなに楽しいと思わなかったよ」
フレデリックの台詞に、思わず船の中で制服を着させられた時の事を思い浮かべてしまった辰巳である。ひたすらに眺めまわされた事を思い出して辰巳は顔を顰めた。ついでにその後の事まで思い出してしまって、顔に熱が集中する。
思わず口許を手で覆う辰巳を、フレデリックが不思議そうに見た。
「どうかしたのかい?」
「っ何でもねぇよ…」
辰巳の反応に、フレデリックはにやりと意地の悪そうな笑みを浮かべると、揶揄うような口調で言った。
「ふぅん? 子猫ちゃんは、何を思い出しちゃったのかな?」
「うるせぇよ馬鹿」
辰巳をつぶさに観察していたフレデリックが、ぽんっと手を打った。どうやら答えがわかったらしいその顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
「わかった。コスプレだね?」
「ッ…言うんじゃねぇよ」
「あっははっ、辰巳ってば本当に可愛いね」
耳元に口を寄せたフレデリックに『エッチ』と囁かれて、辰巳はその首を腕で抱えた。本当に、こういうところが手に負えないと思う辰巳である。
辰巳が首根を締め上げたところで、フレデリックにたいしたダメージがないのは分かっている。だからこそ辰巳に容赦はなかった。案の定、フレデリックはあっさりと辰巳の腕から抜け出した。
縒れた服を直しながら、フレデリックが朗らかに笑って揶揄う。
「最近の辰巳は乱暴だねぇ…ストレスかい?」
フレデリックの言葉に、ふと辰巳が動きを止めた。急に立ち止まった辰巳に、フレデリックがおや? と振り返る。
「辰巳?」
「悪ぃ…」
「え? うん? どうしたんだい急に?」
唐突に謝られる理由が見当たらず、フレデリックが心配そうに辰巳の顔を覗き込んだ。いったいどうしたのだと首を傾げていれば、辰巳がバツの悪そうな顔をして呟いた。
「乱暴だって言うからよ。言われてみりゃあ、やり過ぎかと思ってな。お前が相手だと、どうも加減とか…そういうの忘れちまうんだよなぁ。悪ぃな」
「そんな事を気にしてたのかい? もう…どれだけキミは可愛いんだろうね」
辰巳の肩に腕をかけて、フレデリックがゆっくりと歩きながら話す。
「僕は何も気にしてないし、乱暴って言ったのはただの冗談だよ。まあ、ストレスなのかなって、思うのは本当だけれどね。慣れない旅行に付き合わせてるし、やっぱり僕ひとりじゃ不便なところもあるだろう?」
「そりゃあ俺も納得してる事だろうが」
「辰巳はそうやって僕の我儘を聞いてくれるからさ、気付かないうちにストレスが溜まってるんじゃないかって心配になるんだよ」
ゆったり肩を組んで歩く辰巳とフレデリックを、擦れ違う女性たちがちらちらと見る。そんな視線を気にする事もなく、ふたりはそのままゆっくり歩きながら話した。
「お前は本当に、何しても怒んねぇよな」
「ははっ、何を言ってるんだい? クリスの時みたいな事になったら、今度は怒るじゃ済まないから覚悟しておくんだね、辰巳?」
「あー…まさかあんな酔い方すると思ってなかったけどな…」
思い出しただけでもげっそりしてしまう辰巳である。そもそも本当に、クリストファーは酒を舐めた程度なのだから恐ろしい。
「キミは好奇心が旺盛だからねぇ…言わない方が良かったかなって思ったんだけどね」
「まあ、お前が出掛けに言ってったから余計に気になったってのはあんな」
「本当にキミは…昔から変わらないねぇ…。どうしてそう、僕の言う事に反発するのかな?」
フレデリックの言う事は尤もだった。何故か、辰巳はフレデリックに何かを言われるとそれが気になってしまうのだ。そう辰巳が言えば、フレデリックは呆れた顔をした。
言い方が悪いのかとうんうんと隣で唸るフレデリックに、辰巳は苦笑する。どうしてこう、この男は自分が悪いと思うのか。悪いのは変な好奇心を発揮してしまう辰巳である。
苦笑を漏らした辰巳がそんな事を言えば、フレデリックは困ったように微笑んだ。
「言う事を聞けない子猫ちゃんは、躾が必要…かな?」
「どうしてお前はそうなんだよ」
「だって、悪い事をしたらお仕置きされるって思えば少しは言う事も聞くだろう?」
「勘弁してくれ…お前のそれは冗談に聞こえねぇんだよ」
本気だよ。と、そう耳元に低く囁いてフレデリックが嗤う。
「この前みたいに動けないようにして、ちゃんと躾をしてあげようか?」
「ッ……」
「ふふっ、思い出しちゃったね?」
クスクスと耳元で笑うフレデリックの声が艶めかしく聞こえてしまって、辰巳は眉間に皴を寄せた。嫌な訳ではないが、些か拙いのではないかと思う辰巳だ。
「本当にお前は質が悪ぃな、フレッド。それ以上煽んじゃねぇよ」
「そんな事を言われると、クリスを放置して帰りたくなるね」
「お前が煽らなきゃいいだけだろうが馬鹿」
辰巳はすぐ横にあるフレデリックの頭にゴツリと軽く頭突きした。すぐ耳元で、愉しそうな笑い声が聞こえてくる。そんな何気ない遣り取りをしながら、ゆっくりと夜に向っていく街をふたりで歩く。誰がどんな顔で振り返ろうと、時折額を合わせて笑い合う辰巳とフレデリックの知った事ではなかった。
クリストファーと待ち合わせをした店は、地下にあるバーだった。広さも客の入りもそこそこと言った感じである。観光客向けの店でない事だけは確かだ。
辰巳とフレデリックが店内を見回すと、右手にあるカウンターとは反対側のボックス席でクリストファーが軽く手をあげた。着いて間もないのかテーブルの上には何も乗っていない。辰巳を先に座らせて、フレデリックが隣に腰を下ろす。
「よう。顔はすっかり治ったようだな」
「お陰様でな」
「どうだった? うちの母君は」
辰巳とクリストファーが話す横で、フレデリックがビールをふたつとウーロン茶を注文する。
「綺麗な人だな」
「辰巳が大きくて驚いてはいたけどね」
「そりゃあそうだろうよ。お前らふたりともでかいからな」
クリストファーが呆れたように笑う。クリストファーも小さい訳ではないが、どちらかというと細身である。フレデリックや辰巳と比べると、どうしても小さく見えてしまうのは仕方がない事だった。
とはいえ、こう三人が固まっているとどうしても人目を引くのは避けられなかった。辰巳もフレデリックもクリストファーも、顔立ちは皆整っている。しかも躰のバランスが良いのだ。
他愛もない話をしていれば、怠そうな態度で店員が飲み物を運んでくる。
軽くグラスを合わせて乾杯すると、喉が渇いていた辰巳は一気にグラスの中身を飲み干した。あっという間に空になったグラスをテーブルに置いて、フレデリックを見る。
「ジョッキの方が良かったかな?」
「いや、ビールはそんな飲まねぇよ」
このところワインばかり飲んでいる辰巳は、フレデリックにウイスキーを頼むように言った。苦手な酒がある訳ではないが、飽きはくるものである。
ついでとばかりにフレデリックもグラスの中身を飲み干して、同じものをふたつオーダーした。クリストファーはゆっくり飲むつもりのようだ。
「こんなバーで良かったのかよ?」
「気楽でいいだろう?」
「そりゃあそうだがな」
酒を飲まないとはいえ、クリストファーはこういった店にはよく顔を出すようだった。といっても、普段は『Queen of the Seas』のカジノで働いている身である。クリストファーも、フレデリックと同じように陸で過ごす時間は短いと言って笑った。
「こうして何日も陸地に居るのは久し振りだな。このところ、そうでかい仕事もないしな」
「そう言やお前らは何で船なんかに乗ってんだ? 本業だけでも食っていけんだろ?」
「まあな」
と、そんな話をしている時だった。俄かに店内が騒めき、幾人かが慌てて店を出ていく。何事かと視線を巡らせれば、カウンターのすぐ横で男が女に銃を突き付けているのが見えた。
「ああ? おいクリス。ここじゃあんなのは日常茶飯事なのか?」
「まあ、たまにあるな」
慌てて銃を持つ男から客が遠ざかる中、元より距離のある三人はテーブルに着いたままだ。痴話喧嘩か何かだろうかと、辰巳はぼんやりと観察する。
男は随分と興奮しているようだった。年の頃は二十代半ばくらいだろうか。辰巳には外国人の年齢はわかりにくい。
「しかしまあ、女相手に飛び道具かよ。さすがに外国は違ぇなぁ」
「感心してる場合じゃないだろう? まったく…どうしてキミはそう、あまり危機感を持たないのかな」
「あぁん? お前らだって別に慌ててねぇだろうが」
辰巳の言葉に、フレデリックとクリストファーが顔を見合わせる。言われるまで気付かない辺り、三人ともに同類ではあった。
とはいえ、流れ弾に当たるような事態にだけは陥りたくないフレデリックである。
今のところ男の銃は女に向けられているが、誰かが声を掛けようものならすぐにでも引き鉄を引いてしまいそうな雰囲気だ。

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