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act.02 ”Modest happiness”
世界中の名だたる豪華客船のなかでも、名実ともに最高峰との呼び声高い大型客船『Queen of the Seas(クイーン・オブ・ザ・シーズ)』。船内にあるアイスリンクに辰巳とフレデリックの姿はあった。
定期的に行われるアイスショーはもちろんあるのだが、この二人はそういうものを観覧するよりも、どちらかと言えば自分たちが滑る方が楽しめる。
だからといってフィギュアスケートのように美しく滑れる訳では、もちろんない。辰巳などはスケートなど中学の頃以来だ。当然、言い出したのはフレデリックである。
スケート靴を履いただけで、不安定さに辰巳は眉を顰めた。だが、それだけだった。よろけるでもなく、姿勢が悪くなる訳でもない。
フレデリックはと言えば、楽しそうに辰巳を見て微笑んでいる。もちろん、その足元にスケート靴を履いていた。
そんな二人の姿を、常駐のスタッフが面白そうに眺めている。いやむしろ、少ないながらも同じ空間にいる誰もが必ず一度は二人の姿を凝視していた。
理由は至極単純だ。スケート靴というのは靴の下に刃が付いている。そんなものを辰巳とフレデリックが履こうものなら、結果は考えずとも見えていた。
でかすぎるのだ。二人とも。
いくら周囲の目を気にしないと言っても、辰巳が不満の声を上げたことは言うまでもない。
「はぁー……何だって俺がこんな目に遭わなきゃならねぇ?」
「それは、辰巳が僕との勝負に負けたからじゃないかな?」
クスクスと笑うフレデリックを、辰巳はこれ以上はないほどの顰め面で睨んだ。その不機嫌の理由は、何もスケートばかりではない。
船旅というのは、腐るほど時間がある。その有り余った時間をどう過ごすか、この二人は互いに希望を出し合い、コイントスで勝った方が希望した過ごし方をするという賭けを始めた。
そして辰巳は、フレデリックに負け続けている。
正直なところ、カード勝負では辰巳はフレデリックに勝てる気がしない。だが、勝負はコイントスなのである。ブラックジャックのようなカードゲームと違い、記憶力が勝負を左右する事はない。と、思っていたのだが……。
初日を除いて辰巳は七連敗中だった。
負けるのは仕方がないとそう思う。思うが、場所にも不満が募る。辰巳は殆ど自分と変わらない位置にあるフレデリックの胸ぐらを掴みあげて詰め寄った。
「だからってお前はどうしてこう突拍子もねぇ場所に連れてくるんだ、あぁん?」
さながら喧嘩でも始まりかねない雰囲気に、周囲の視線が集まる。まして辰巳は、家業のせいでもなかろうが些か強面なのだ。胸ぐらなど掴んでいればその迫力は冗談に見えない。
さすがにこういう形で注目を集めてしまっては、フレデリックもお手上げだった。
「辰巳、ガラが悪いよ……」
辰巳は鋭い舌打ちを響かせて、ホールドアップしたフレデリックを離す。諦めの吐息とともに弱々しく吐き出した。
「マジで勘弁してくれよ……。こんなところですっ転んでみろ、こっ恥ずかしくて俺は船から飛び降りるぞ」
「そんなことは僕がさせないよ辰巳。エスコートしてあげようか?」
「ああ? 野郎二人で仲良く手ぇ繋いで滑るってか? 勘弁しろよお前、それこそ恥ずかしくてやってらんねえっつぅんだよタコ」
弱音なのか口が悪いのか分からない辰巳は、どうやら人前で恥を晒すのが嫌なようだった。まあ、辰巳のような家業にはメンツというものもある。
要は人目は気にしなくとも、格好悪い姿を晒したくはないのだろう。と、フレデリックは納得し、そしてこういう所がどうしようもなく可愛いと思ってしまうのだ。
ともあれ大きな溜め息を吐いて辰巳は歩き出してしまった。どうやら、肚は決まったようだ。
しかし随分と嫌がっている割には後ろをついていくフレデリックから見ても、辰巳の歩く姿にまったく危なげはない。リンクサイドとはいえスケート靴では、運動が苦手な人間は歩く事すら覚束ない者も多い。
それを知ってか知らずか、幾分歩幅は狭くなるものの、辰巳は普段と変わらぬ立ち姿で歩いていた。
リンクの入り口で何気なく立ち止まり、辰巳は目の前に広がる真っ白な氷の床を眺める。
リンクとリンクサイドを隔てる壁に手をついて溜め息を吐く辰巳の姿に、フレデリックはさすがに声を掛けた。
「そんなに嫌かい?」
「別に。思うように動けねぇのが得意じゃねぇだけだよ」
そう言ってさっさと足を踏み出す辰巳は、既に壁から手を離している。ゆったりとリンクの外周を滑る辰巳には、危なげなところなどどこにもなかった。少なくとも、中学生の頃以来だと言っていたのが嘘のようである事だけは確かだ。
何をそんなに嫌がっていたのかと苦笑を漏らして、フレデリックが後を追う。悠々と氷の上を滑るその姿は優雅と言っても過言ではなかった。
フレデリックは躊躇いもなく氷を蹴って加速すると、リンクを横切って辰巳の前に出る。躰の向きを変えたフレデリックの足元で小さく氷が削れる音がした。
向かい合い、後ろ向きに滑るフレデリックに辰巳は呆れたように小さく息を吐いて恋人の名を呼んだ。
「フレッドよ……」
「なんだい?」
「いつも思うんだがな、お前には苦手ってモンがねぇのか?」
辰巳が言うのも尤もで、フレデリックには苦手なものなどないように思える。カジノでカードカウンティングなどというものを難なく披露し、それ以外でもフレデリックは何でもそつなくこなしてしまう。苦手なものなどないのではないかと思える程に。
むしろ辰巳自身、どうしてこんな男が自分を恋人にしているのか時たまに疑問に思う程度には、フレデリックは男前だ。外見も、中身も。
実際フレデリックは外で飲んでいるとよく女性に声を掛けられている。それを辰巳は隣で聞いているのだ。
「あるにはあるけれど……」
「あぁん? 言ってみろよ」
辰巳の言葉に、一瞬だけ押し黙ったフレデリックが躰の向きを変えて隣に並ぶ。辰巳が口を開くより早く小さな声で耳元に何かを囁くと、フレデリックは勢いよく氷を蹴った。
氷を蹴立てる音と同時に加速したフレデリックとの距離が、あっという間に離れていく。その背をを辰巳の険しい視線が追った。
次の瞬間、小さく口の中で舌打ちを響かせた辰巳はその長い脚で氷を蹴った。ただそれだけで不安定さを増す足元に、辰巳は顔を顰めながらも加速する。
追いかけてくるとは思ってもいなかったであろうフレデリックの腕を、辰巳は掴んだ。案の定驚いたように目を見開くフレデリックを支点に、躰の方向を変えた辰巳が短くその唇を奪う。
「ッ!?」
突然の思わぬ出来事に息を詰めるフレデリックも、辰巳も、だが氷の上だった。しかも、二人とも相当な速度で動いたままだ。変にエッジを立ててその場に倒れる事はなかったが、そんな無謀な動きをしておいて平然としていられる場所でもなければ、平然としていられるだけの技量もなかった。
フレデリックの腕を掴んだまま、辰巳がバランスを崩す。反射的に手を離した辰巳の腕を、逆に掴んで踏み止まろうとしたフレデリックの努力は、だがこの時ばかりは報われなかった。進行方向を変える事すら出来ない。
スピードと、体躯の大きさが仇になる。態勢を崩してもつれたまま滑るすぐその先に、リンクを隔てる壁があった。
激突は免れまいと咄嗟に脚を突っ張りはしたが、フレデリックは辰巳もろとも衝撃を受けた。
思わず瞑った目をフレデリックが開くと、すぐ目の前に辰巳の黒い髪がある。壁と、フレデリックの躰をしっかりと隔てるかのように壁に背を預けて項垂れる辰巳の髪がゆらりと揺れて、乱れた前髪の間から強い意志をもった黒い瞳が覗いた。
慌てたように駆けつけてくるスタッフに軽く手をあげて大丈夫だと伝え、フレデリックは辰巳の顔を覗き込んだ。
「辰巳、大丈夫かい?」
「あぁん? お前はどうなんだよ」
「僕は平気だけど……」
「ならいい」
不機嫌そうな口調で言ったあとで、フレデリックを抱えたまま辰巳はガシガシと頭を掻いて呟いた。
「言いたくねぇ事まで聞くつもりはねぇよ。だからあんな寂しそうな顔して言い逃げすんな。……追いかけたくなっちまっただろぅが」
辰巳の言葉に、フレデリックの目が驚いたように見開かれる。
「それだけのためにあんな無茶をしたのかい?」
「ああ」
そう短く応えて、辰巳はフレデリックの腕を掴んで引き上げながらあっさりと立ち上がった。フレデリックの服についた氷をその手で払って、辰巳は何事もなかったように滑り出してしまう。
追いかけるようにフレデリックが隣に並べば、苦々しい口調の辰巳が横目で睨んだ。
「ったく、人がせっかく放してやったのに無駄にしやがって。大丈夫かよ?」
「僕は平気だよ。辰巳こそ大丈夫かい? 結構な衝撃だったけど……」
「おかげさまでな。お前が脚突っ張ってたろうが」
並んでゆっくりと氷の上を滑りながら辰巳が普段通りの口調で言えば、フレデリックがクスリと笑う。
「それくらいしかできなかったからね。辰巳を潰したら大変だよ」
「あー……くっそ、だっせぇな。これだから氷の上は嫌なんだよ。思うように動けやしねぇ」
「あんな無謀な動きをしたら当たり前だよ」
「あぁん? 元はと言やぁテメェがあんなこと言ってさっさと行っちまうのが悪ぃんだろうが」
そう言って辰巳は懲りずにフレデリックの首に腕を回して締め上げた。不安定な体勢にもかかわらず、気にする素振りもなくフレデリックが笑う。
「だからって追いかけてキスされるなんて思ってもみなかったけどね。キミはいつもそうやって僕を驚かせるから困る」
「知るか阿呆」
「まあ、少しだけ得をした気分だけどね」
そう言って笑うフレデリックを辰巳が呆れたように見遣れば、視線が噛み合う。
ふと思い出したようにフレデリックが問いかけた。
「というか辰巳、スケートは苦手だったんじゃなかったのかい?」
「ああ? 思うように動けねぇのが嫌だっつっただけで、滑れねぇとは言ってねぇよ。まあ、案の定あのザマだったがな」
「あのスピードであんな事したら転ぶに決まってるじゃないか。むしろ僕は追いつかれると思ってなかったよ」
フレデリックが言うのも尤もで、スケートが苦手だなどという人間が追いつけるような速度では絶対にないのである。胸ぐらに掴み掛かってくるほど嫌がっていた辰巳がそんなスピードで滑れば、驚きもするだろう。
「滑るだけなら誰でも出来んだろ。俺はお前みてぇに後ろ向いたりは出来ねぇよ」
あっさりと言い放つ辰巳に、フレデリックは苦笑を漏らすことしか出来なかった。”普通は”などという言葉が辰巳に通用しない事は分かっていたが、こうあっさり言われてしまえば納得するしか道はないのである。
確かなのは、この二人の身体能力の高さはずば抜けているという事だけだ。
その後、盛大に壁に突っ込むなどという派手な事故を起こしておいて、何事もなかったように滑るどころか競争を始めてしまう二人を止められる者はいなかった。
その日の深夜。二人の姿は甲板上にあった。夕食を済ませて酒を飲んだ後、風に当たりたいと言い出したのは辰巳である。
世界中に豪華客船は数あれど、その中でもトップクラスの規模を誇るこの船は、当然の如く甲板も広い。
昼夜問わず散歩を楽しむにはうってつけのそこを、辰巳とフレデリックは並んで歩いていた。
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