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act.03 ”Lies and rewards”
騒ぎが起きたのは、辰巳とフレデリックがちょうど食事を終えてレストランを出た直後の事だった。食器の割れる音と、次いで悲鳴が背後から聞こえてきて二人が同時に振り返る。
辰巳とフレデリックの位置からでは、パーテーションが邪魔をしていて中の様子は窺えなかった。
「あぁん?」
胡乱気な声と共に踵を返して中へ戻ろうとする辰巳の肩を、フレデリックの手がそっと押さえた。ゆっくりと、フレデリックが首を横に振る。
「大丈夫だよ辰巳。スタッフが処理するだろうから、僕たちは行こう」
「放っておくのかよ?」
「僕たちはただの客であって、ヒーローなんかじゃないだろう?」
フレデリックの言う事は尤もだ。もしヒーローなんてものがいるのなら、辰巳などはむしろ敵役にあたる場所に居る人間のはずである。
だが、今出てきたばかりの店で何かがあったのなら、様子くらい見ようと思うのが当然ではなかろうかと辰巳は思う。てっきりフレデリックの事だから一緒に様子を見に行こうと、そう言ってくれるものだと思っていた。
「じゃあ何でお前は教会ん時にあんなことしたんだよ」
「あの時は事が起こる前だったからね。それに、気付いたのは僕たちしかいなかった。違うかい?」
「そうかもしれねぇがな、だからって放っておけ……っ!?」
ガシガシと頭を掻きながら喋っていた辰巳は、フレデリックの手によって唐突に腕を掴まれ口許を手で塞がれた。腕を引かれて店の入り口からは死角になる場所へと引きずり込まれる。
驚く辰巳の耳元に、フレデリックの低められた声が聞こえてきた。その声は、どこか呆れているようだ。
「どうにかしたいと思うなら、少しは中の様子に気を配ってくれないか辰巳?」
言いながらフレデリックに視線で示される。今まで二人が立っていた場所を見ると、ひとりの大柄な白人男性が小さな幼子を抱えてレストランから出てくるところだった。
男にどんな事情があるのかは分からないが、店で騒ぎを起こした張本人という事だけは確かだろう。小さく辰巳が頷くと、口許を覆っていたフレデリックの手が外される。
「悪ぃ」
「それで? あの状況で、キミはどうするつもりなんだい?」
若干のからかいを含んだ口調で問いかけられて、辰巳はもう一度幼子を抱える男を見た。
凶器になるような物を男は持っていない。但し、男の手は幼子の首の辺りを押さえている。大柄な男の手であれば、幼子の首などすぐに折れるだろう。店から出たものの、どちらに行くかを決めあぐねている様子だ。と、辰巳に分かるのはそれくらいのものだった。
辰巳は再びフレデリックに視線を戻すと、ガシガシと頭を掻きながら何気ない口調で言った。
「どう…って、何も考えちゃいねぇけどよ」
「本当にキミは…どうしてそう行き当たりばったりなんだろうね…」
「行った先でどうにかすりゃあいいだろうが」
「子供がいるのに?」
フレデリックの言葉に辰巳は押し黙るしかなかった。確かに、男を刺激して幼子に怪我をさせてしまう可能性はある。
そうこうしている間に男が動く気配があって、辰巳はフレデリックとともに様子を窺った。男はどうやら、こちらへと向かってくるようだった。そうなると必然的に辰巳の目の前を男は通る事になる。思わず辰巳はフレデリックを見た。
辰巳の視線の先で、わざとらしく肩を竦めたフレデリックの口角が愉しそうに歪む。
「お手並み拝見といこうか。子供は僕が預かろう」
「いいのかよ」
「こちらに来てしまったものは仕方がないんじゃないかな。但し、僕は加勢しないからね」
そのまま立ち去る事も可能な状況ではあるが、どうやらフレデリックは辰巳に任せてくれる気になったらしい。加勢はしないというフレデリックに、辰巳が嗤う。
「それで十分だよ」
騒ぎを受けてすぐ後ろまで来ているセキュリティーの人間に、フレデリックは何やら指示を出している。辰巳は苦笑を漏らすと、忙しなく辺りを窺いながらこちらへと近づいてくる男を見た。
幼子を抱えているのと、距離を取りながらもレストランから数人のスタッフと、幼子の両親らしき男女が追いかけてきていることで辰巳たちの存在にはまったく気付いていないようだ。
男の背中が、辰巳とフレデリックが身を隠している角に差し掛かる。辰巳は一息に男へと詰め寄った。突然の襲撃に男の目が見開かれる。
辰巳は無造作に腕を伸ばして幼子の喉元にある男の腕を捻り上げると、そのまま態勢を低くして下から男の腋窩へと肘を突き上げるように叩き込む。
急所を突かれて男が痛みに呻く。反動で男の手から幼子が落ちるのを辰巳は易々と抱き止めて、すぐ後ろにやってきたフレデリックへと放り投げるように手渡した。
「辰巳、後ろ」
言いながらフレデリックが、即座に安全な場所まで下がった。
男へと向き直った瞬間に飛んでくる拳を左腕でブロックして、その拳の重さに辰巳は思わず口許を歪める。身長は幾分辰巳の方が勝っているが、ウエイトは男の方が上だろう。長期戦は避けたほうが良さそうである。
腕をそのままに辰巳は右膝を繰り出した。予想通り、男が腰を捻ってガードする。辰巳は構う事なく蹴り上げた右足で男の懐に踏み込むと、腕を掴んで躰を半分回転させた。辰巳の膝を腰で受けた男に態勢を立て直す余裕はなかった。男の躰が浮き上がり、次の瞬間には床に叩きつけられる。
床に転がった男をうつ伏せにさせて腕を取ると、辰巳は背中側に思い切り捻り上げて抑え込んだ。セキュリティーのスタッフが傍にしゃがみ込んだのを確認して、辰巳はゆっくりと立ち上がった。
辺りを見回すと、フレデリックが幼子を抱えたままにこやかに微笑んでいる。
お見事と、そう言いながら寄ってくるフレデリックの腕の中で、泣き止みかけていた幼子が再び声をあげて泣きだした。どうやら、辰巳の顔が怖かったらしい。
ガシガシと頭を掻きながら辰巳は渋い声を出した。
「あー…ったく、さっさと親御さんとこ連れてってやれよ」
見ていないで早く両親の元へ連れて行ってやればいいのにと、そう思ってしまう辰巳である。実際には辰巳が立ち回りを演じていて不可能だったのだが。
セキュリティースタッフの手によって連行されていく男をぼんやりと眺めていると、フレデリックの声が聞こえて辰巳は振り返った。
「喜んでたよ。ありがとうって伝えてくださいだって」
「まあ、無事で良かったんじゃねぇか?」
「それにしても、背負い投げとはね…。辰巳は、柔道をやっていたのかい?」
「あー…少しだけな」
学生の頃に少し齧った程度だと、そう言って辰巳はどこか苦い笑いを浮かべる。理不尽ないちゃもんを付けられたとはいえ、稽古中に師範と喧嘩になって骨折させて道場を追い出された…などとはさすがに言えない。
誤魔化すように笑って、辰巳が歩き出す。その後を、フレデリックは首を傾げながらついて行った。思わぬ食後の運動をしてしまったが、時間はたっぷりある。
しばらく歩いたところで、不意に辰巳は違和感を感じた。いつもなら隣に並んでくるはずのフレデリックが、いつまでも並んで来ない。不思議に思いながら辰巳が振り返ると、フレデリックは楽しそうに後ろを歩いていた。
「何でそんなとこにいんだよ」
「いやあ、どこに行くのかと思って」
「別に決めちゃいねぇよ。さっさと隣に来いよお前、落ち着かねぇだろ」
さらりとフレデリックが喜ぶような事を言って、辰巳が再び歩き出す。その隣にフレデリックは並んだ。
にこにこと嬉しそうに笑うフレデリックを横目に見て怪訝そうな顔をする辰巳は、きっと自分が何を言ったのかに気付いていない。そういう男だ。
「しかしまぁ、教会ん時といい今回といい、この船じゃあんな騒ぎは当たり前なのかよ?」
「うーん…。そこまで多くはないけれど、セキュリティーは居ても警察がいる訳じゃないからね。どうしても騒ぎが起きる事は…あるかな」
困ったように言って、フレデリックが辰巳を見る。
「辰巳は、ヤクザなのに正義感が強いよね。ニンキョウ…ってやつなのかな?」
「あ?」
「困ってる人がいたら、放っておけないだろう?」
「そりゃあすぐ後ろであんな騒ぎが起きたら、様子を見に行こうってならねぇか?」
「ならないから僕は止めたんじゃないか」
「なんつぅかよ、正義だの任侠だのそんな大層なもんはどうでもいいが、見て見ぬ振りは…したくねぇな」
辰巳らしい答えに、フレデリックが微笑んだ。
「キミは…本当に変わらないね、辰巳」
そう言ってフレデリックは辰巳の腕に絡みついた。
突然の事にバランスを崩して、よろけながらも踏み止まる辰巳の眉間に皴が寄る。
「お前っ、急にじゃれついてくんじゃねぇよ。危ねぇだろうが…」
「あっははっ、大丈夫だよ辰巳。辰巳が転びそうになったら僕が支えてあげるから…さ」
「転ばそうとしてる本人が偉そうに言ってんじゃねぇよ馬鹿」
呆れたように顔を顰める辰巳を、腕に纏わりつき少しだけ低くなった位置からフレデリックは見上げた。
十一年前、フレデリックは辰巳と同じように、見て見ぬ振りをせずに見知らぬ人を助けた。それはただの気まぐれだったが、おかげで取るに足りない窮地に追い込まれた事がある。
危ういところを、辰巳が助けたのだ。『見て見ぬ振りをする日本人は賢い』と、そう嫌味を言ったフレデリックに、困ったように笑いながら頭を掻く辰巳の姿を思い出す。
勘違いをしているのだと、フレデリックにはすぐに分かった。辰巳はあの時、フレデリックが言った言葉の意味を穿き違えている。あの時辰巳が救ったのは、フレデリックではない。
フレデリックを追い込んだ三人の命と、辰巳自身の命だった。
運命などというものがもし本当にあるのだとするならば、その出会いは間違いなく運命だった。…あの時、フレデリックを路地へと追い込んだ三人の若者にとって。
あの日、辰巳が声を掛けてこなければ、フレデリックは自分を追い込んだ三人をあっさり殺していただろう。死体が見つかったところで捕まるような下手な真似はするつもりがなかったし、死体を始末する事も出来た。
そして、辰巳が声を掛けた事で死体は四つに増える…はずだった。
『見て見ぬ振りをする日本人は賢い』と、辰巳に向けてフレデリックが放った言葉は、間違いなく嫌味だった。本当は『見て見ぬ振りをしていれば死ぬこともなかったろうに』という意味を込めてフレデリックは言ったのだ。それを、辰巳は今も勘違いしたままである。
あの頃既に人を人とも思っていなかったフレデリックを止めたのは、後にも先にも辰巳ひとりだ。自分とさほど変わらない体躯を持つ辰巳に、フレデリックは興味を持った。
自分好みの顔と躰。そして深く黒い闇を湛えた、意志の強い瞳に興味を惹かれた。この男を知りたいと、フレデリックが初めて興味を向けた男。それが辰巳である。
十一年前の真実を辰巳が知ったなら、どういう反応をするだろうかとそう考えて、フレデリックはやはり黙っておくことにする。卑怯だと思いはしても、今更嫌われたくはなかった。
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