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「最近はそうでもねぇだろう」
反論する辰巳の頬を、フレデリックがその長い指先で辿った。そこには、うっすらと治りかけの切り傷がある。フランスでの滞在もあと僅かという日に、辰巳がトラブルに巻き込まれて出来たものだ。
「傷痕…残りそうだね」
「女じゃねぇんだから傷くらい構わねぇよ」
「余計に怖がられるよ?」
「うるせぇな、放っとけ」
元より些か強面の自覚は辰巳にもある。だからと言ってそれがどうしたと思っているし、ヤクザなどそれくらいでちょうどいいとも思っていた。傷痕にしても、フレデリックが過保護なだけで辰巳自身は顔など気にしてはいない。
フレデリックが自分に向ける愛情が歪んだものである事は、辰巳自身も気付いている。辰巳が誰かに傷付けられる事を、フレデリックは極端に嫌うのだ。それは言うなれば、自分の玩具を他人に壊されるのが気に喰わないという、子供のそれと似ていた。
そしてそのフレデリックの怒りや嫉妬は、暴力ではなく淫靡なものとなって辰巳に向けられるのである。
行き過ぎた執着心は時として人に恐怖をもたらすが、辰巳にはそれが心地良い。身体的な束縛など一切御免だと辰巳自身は思っているが、精神的な束縛であれば何という事はないのである。むしろ、それほどまでに求められていると思えばフレデリックが可愛く見えてしまう。
重症だと、そう思っていたのはいつの頃だっただろうか。今となっては思い出せもしない。
それがフレデリックの手によってもたらされた”成果”であるのか、元より辰巳自身が持っていた素質なのかは、関係がなかった。気持ちが良い。それが重要なのである。精神的にせよ肉体的にせよ、辰巳は快楽に貪欲だった。
「たまに辰巳は、僕に躾をされたくてトラブルに巻き込まれに行ってるんじゃないかと思う時があるよ」
「そんな訳があるか阿呆」
「どうかなぁ…。キミは、案外僕よりも欲望に忠実だからね」
「馬鹿かお前は。傷なんぞ作らなくても盛ってんのは誰だよ」
種類が違う。と、フレデリックはそう言った。確かに言われてみればそうなのかもしれないと腑に落ちてしまう時点で、大概自分も歪んでいる事に気付く辰巳だ。フレデリックを変態と罵るその裏側で、自分もまたそこに含まれることに気付いている。まさしく、お互い様といったところだろうか。
「気持ち良けりゃなんでもいいだろ」
「ふふっ、ごもっとも。でも、辰巳を気持ち良くさせる相手は…僕以外に認めないよ?」
「お前以外で、お前以上に俺を気持ち良くさせてくれる相手探す方がめんどくせぇよ」
「その答えは…いただけないな」
すっ…と眇められるフレデリックの目に、色気が宿る。
「それとも…僕を怒らせたくてわざと言ってるのかな? いけない子猫ちゃん?」
「だったらどうだってんだよ」
「期待に副って…キミを啼かせてあげる」
「まだ運動し足りねぇのかよ?」
フレデリックの欲望には底がない。そしてそれを叶えるための体力も、相手をねじ伏せるだけの力も、フレデリックは持っているのだ。辰巳などが敵うはずもない。
「僕は我儘だからね。好きなものは際限なく欲しくなる」
「そのうち飽きて捨てられそうだな」
「有り得ない。僕は…辰巳がいないと生きていけない。キミがいなくなったら、この世にもう用はないよ」
さらりと言ってのけるフレデリックの言葉は事実だ。だからと言ってフレデリックには死ぬ気など毛頭ないのである。この男は、自分が生きるために他人を殺すことを厭わない。同じように、自分が生きるためなら辰巳を生かし続けるだろう。
「お前はおっかねぇな」
「辰巳が僕を要らなくなったら正直に言って。その時はキミを殺して僕も死ぬから」
「冗談じゃねぇな。俺はまだ死にたかねぇよ」
金糸の髪を撫で梳きながら辰巳が言えば、フレデリックがごそりと躰を引き上げた。今にも唇が触れそうな距離で囁く声は、艶やかに濡れた響きを纏って辰巳の耳朶を刺激する。
「僕のために生きてくれる?」
「ああ」
「じゃあ、ご褒美にたっぷり可愛がってあげる」
吐息ごと飲み込むような口付けを交わし、口腔を貪り合う。ただひたすらに舌を絡ませていれば、そのうち溶け合ってひとつになれるんじゃないかなどという莫迦な錯覚に捕らわれる。
フレデリックが与える淫楽は、いつでも辰巳を夢中にさせるものだ。躰を重ねる度に上書きされて作り替えられていく感覚が、何よりも辰巳を虜にする。
苦痛も快楽も変わりはないと言い放つフレデリックの言葉は、いつしかそのまま辰巳にも伝染していた。フレデリックの手で与えられるものならば、辰巳の躰は受け入れる。まだ、心は追いついてはいないけれど。
いずれフレデリックのように自ら苦痛を求める日が来るのだろうかと、そう思えば小さな笑いが漏れた。
◇ ◆ ◇
その日。『Queen of the Seas (クイーン・オブ・ザ・シーズ)』の船内にある会議室の一室には、ざっと数十名のクルーたちが集まっていた。人種も性別も様々で、中には制服を着たままのクルーまでいる。その中に、辰巳とフレデリックは紛れ込んでいた。
どうしてこの二人がそんな場所に居るのかと言えば、話は一時間ほど前に遡る。
「カップル成立発表会…あんだそりゃ」
「当クイーン・オブ・ザ・シーズの家族恒例行事です♪」
やけに浮かれた様子で言ってくるフレデリックを、辰巳が胡乱げに眺め遣ったことは言うまでもなかった。
「ほら、クリスとマイクがくっついただろう? だから、それの発表会があるんだよ」
「はあ? 意味が分かんねぇ」
「この船ではね、クルー同士が恋人になると、みんなでお祝いをする習わしがあってだね…」
云々かんぬん。ひたすらにそのカップル成立発表会というものに行こうと辰巳を誘うフレデリックである。胡散臭い事この上ない笑顔で誘うフレデリックに、辰巳は顔を顰めた。
ようは閉鎖組織の中での話題作りを兼ねて交流の場を設けようという趣旨で始まった恒例行事らしい。と、そう思っていた辰巳の考えは…甘かった。
結局フレデリックに押し切られて連れ込まれた会議室。その目の前で繰り広げられる光景を見て、辰巳はクリストファーに同情を禁じえなかった。質問攻めの嵐。
確かに質問者は質問の前に所属や名前を名乗るという決まりがある以上、交流の場とも呼べるかもしれないが、これは完全にカップルになった二人をひやかすための企画だろうと、そう思う。
フレデリックまでもが嬉々として手を上げているのには呆れもしたが、とにかくあれやこれやと馴れ初めから呼び名に至るまでクルーたちの質問にクリストファーとマイケルが答えさせられているのである。
「おいおい…勘弁してやれよ…」
思わずそう呟いた辰巳をフレデリックが見た。
「僕もやりたかったなぁ」
「馬鹿か」
「まあ、辰巳はクルーじゃないし…仕方ないけれど…」
真面目にしゅんとしているフレデリックが恐ろしい辰巳である。まさに記者会見場のような様相を呈している会場で馴れ初めを語らされるなど、拷問以外の何ものでもない。
別に男同士であるとか、その辺を一緒に見て回るだとか、そういうのは辰巳は気にしない。だが、こう明け透けに恋人であると喧伝するような真似は好かないのである。
ともかく、この船のクルーでなくて良かったと心底思い、壇上に祭り上げられたクリストファーに辰巳は心の中で拝むように両手を合わせた。ご愁傷様…と。
一時間近くにも及ぶ質問攻めにクリストファーとマイケルが耐え抜く様を眺め、そろそろ挙手する者も少なくなってきた時だった。入口の扉付近に佇んだ黒髪の女が手を上げるのが見てとれた。
妙だ。と、辰巳が思ったのはそんな事である。場にそぐわないというか、愉しむ場所であるのに無表情な女なのだ。椅子も用意されているというのに座りもしないで最初からそこに立っていた気がする。
進行役のクルーに指名された女は静かに口を開いた。
『レストランスタッフのリンです。どうしてお二人は同性を選んだんですか?』
英語で告げられるリンという女の質問に、会場が一瞬静まり返る。
マイケルやクリストファーが女に答える中、無粋な質問だとそう思う辰巳である。日本とて同性婚が認められている訳ではないが、別に同性が付き合おうが構わないだろうというご時世だ。まして、ここはひやかしとはいえ祝いの場である。
『では、お二人はお互いよりも惹かれる相手が出来たらどうしますか?』
続けざまに投げかけられる質問に、さすがに会場内もざわつき始めるのが辰巳にも分かった。当然だが、主役二人も困り顔である。嫌がらせにしても胸糞が悪かった。思わず辰巳が立ち上がる。
『おい。いい加減にしておけよ。祝う気がねぇなら、こんな場所にはくるもんじゃねぇだろう』
「……辰巳…」
ゆっくりとリンの元へ向かう辰巳の後を、フレデリックが追いかけた。辰巳は、女性を相手に殴りかかるような真似をする男ではないが、念のためだ。
リンの目の前に立った辰巳が、静かに口を開いた。その口調は、どこか小馬鹿にしたようでもある。
『ここは無粋な質問をしにくる場所じゃねぇ。そういうのが聞きてぇなら、個人的にやるんだな』
『貴方には関係ないことです』
『どうかな。あんたのクソみてぇな質問に興味がねぇのは、俺だけじゃないと思うぜ? 周りを、よく見るこった』
クソみたいな質問と、そう言った時にリンの眉が僅かに動いたのが辰巳には見て取れた。そんな辰巳の背後から、フレデリックが顔を覗かせる。ひょっこりと辰巳の肩から顔を出したキャプテンの姿を見ても、リンの表情には何の変化もなかった。
『そうだねぇ。僕も、キミの質問には興味がないかな』
辰巳の腰に腕を回して背後からにっこりと微笑んだフレデリックの唇から零れ落ちる声音は、明らかに嘲笑の音を響かせていた。
『とにかく、キミがもし個人的にあの二人に言いたい事があるのなら、僕が責任をもってその場をセッティングしてあげるよ。だからここは、帰ってもらえるかな?』
その後で、低く囁く。
『その方が、キミも都合がいいだろう?』
思わずフレデリックを横目で見遣る辰巳である。自分が言われた訳でもないのに、一瞬鳥肌が立ったのだ。
ともあれ、そんなフレデリックの声は会場の誰にも聞かれる事はなく、見せつけるように辰巳の背中にべったりと張り付いたキャプテンの姿に、相変わらずラブラブだと会場内の空気は和みつつあった。
無言で踵を返したリンにひらりひらりと手を振って、フレデリックが辰巳の背中から離れる。
クリストファーとマイケルの元へと歩いて行ってしまったフレデリックを辰巳が見送っていれば、どこかで聞いた事のある声が聞こえてきた。確か、ジャックというディーラーだ。
『いやぁ、ありがとうよ辰巳。さすがキャプテンのダーリンだ、頼りになるねぇ』
『そのダーリンってのは、勘弁してくれねぇか…』
ジャックが話しかけた事で、辰巳はあっという間にクルーたちに取り囲まれた。フレデリックの職場で仲間を邪険にする訳にもいかず、苦笑を浮かべるのが精一杯である。
英語は理解できるのだが、こう何人も同時に話しかけられると理解すら覚束ず、辰巳が困惑したその時だった。会場に、クリストファーの愉し気な声が響き渡る。
『おいお前ら。ついでに我らがキャプテン夫妻にも、馴れ初めでも聞いたらどうだ? こんな機会もなきゃ、旦那の話は聞けないだろう?』
それは名案だとばかりに、辰巳はあっという間にフレデリックと共に壇上に押し出された。何度も言うが、フレデリックの職場で暴れる訳にはいかなかったのである。
余計な提案をしたクリストファーを辰巳が睨めば、『ざまあみろ』と、そう唇が動いた。まさに恩を仇で返すとはこの事かと、そう思う辰巳である。
結局、クリストファーと辰巳、師弟ともども質問攻めに遭うという結果になり、にこにこと嬉しそうに笑っているのはフレデリックだけという始末だ。
左側に座って嬉しそうにクルーたちと話しているフレデリックを見れば、まあ我慢も出来る辰巳である。だからといって、けして歓迎している訳ではなかったが。いやむしろ、我慢した分だけ辰巳は怒りを溜め込んでいたのである。
「はぁー…楽しかった♪」
部屋に戻るなり伸びをしながらそう言ったフレデリックに、辰巳は噛みついた。
「あぁん!? 何が楽しかっただこのタコ! てめぇは何を洗いざらい吐き出してやがんだぶっ殺すぞ!」
「辰巳…目が本気で怖い…」
「当たり前だろぅが! 俺は怒ってんだよ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか…。家族たちに報告出来て僕は嬉しかったんだ…」
いじいじと拗ねたように言うフレデリックは、自分が百九十センチの男であるという事実をすっかり忘れているようである。いくらフレデリックを嫁と呼ぼうとも、不機嫌な辰巳に容赦はなかった。
「でけぇ図体して拗ねてんじゃねぇよ気持ち悪ぃ。報告の域超えてんだろうがッ」
「だって…」
「だってもクソもねぇんだよ阿呆」
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