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部屋に戻ってソファに座ろうとした辰巳は、その腕をフレデリックに捕まれ、そのまま寝室へと連行されたのである。フレデリックはついでの如く軽々と辰巳の躰を寝台に放り投げた。
仰向けに転がる胸の上にさっさと金色の頭を乗せてがっちりと腰をホールドされてしまっては、辰巳に逃げようはない。怒っているのか甘えているのか、はたまた拗ねているのかも判断がつかず辰巳が困惑したくらいである。
仕事が嫌だと喚くフレデリックを宥めすかし、一緒に居たいとしょげかえるのを慰め、楽しみにしていた誕生日を忘れているなど酷いと怒るフレデリックを辰巳が抱き締めたのは昨日の事だ。
記念式典の開場は午後だった。それまではフレデリックとふたり、ゆっくり過ごそうと辰巳は思っている。
「こんな日に仕事だなんて…」
「まだ言ってんのかよ。さっさと仕事片付けて、またゆっくりすりゃあいいじゃねぇか」
「委任式もあるし…」
「ああ…お前の制服姿も久し振りだな、そういえば」
フレデリックの制服姿を辰巳が見るのは、前回のクルーズで代理の仕事をフレデリックが引き受けた時以来の事だ。辰巳は、フレデリックが制服を着ている姿を見るのが好きだった。真っ白な制服はフレデリックによく似合っている。
「楽しみだな」
呟くように言う辰巳に、フレデリックはだが突拍子もない事を言い始めた。
「どうせなら僕は辰巳とダンスをしたい」
「はぁん? 男同士でダンスってお前な…」
委任式の後には、ダンスパーティーが披かれる。『Queen of the Seas』のような客船では、キャプテンがダンスパーティーで踊る事はままある。そんな中、委任式後のパーティーともなれば、新旧のキャプテンが相手をしなくてはならない。
「そうだ辰巳。仕事が済んだら、委任式の前に僕とダンスをしないかい?」
「おいおい勘弁しろよフレッド…俺はお前と違ってダンスなんてガラじゃねぇんだよ」
ガシガシと頭を掻きながら言う辰巳に、フレデリックは似合うのに…とそう言った。日本に於いてボールルームダンスと言うものは、ほぼ競技を指す。辰巳のような人間に素養としてのダンスの知識などある訳がない。
「…踊れない…?」
「そう言ったら諦めんのか?」
にやりと口角を歪ませる辰巳に、フレデリックは胸に頭をぐいぐいと押し付けた。どうやら怒っているらしい。
別に辰巳はダンスが踊れない訳でもないが、好き好んで踊るようなタイプでもないのは確かだった。
「痛ぇよ」
「どうしてそうキミはいつも僕に意地悪をするんだい!?」
「あのなぁフレッド。日本じゃそうそう社交ダンスなんてものは踊らねぇもんなんだよ」
「シャコウ…ダンス…?」
聞き慣れない言葉に戸惑った様子のフレデリックを、辰巳が笑う。
フレデリックと辰巳の間では、ごく稀にこういう事が起きる。いくら日本語に堪能なフレデリックといえど、知らない言葉はやはりあるのだ。そしてそれは、だいたいが生活環境の違いに由来するものが多い。
「ボールルームダンスの事だ。つぅかまあ、男女で踊るダンスの総称みてぇなもんだな」
「ソシアルダンスって呼ぶことは知ってたけど…」
「そういうダンスなんぞ習った事もねぇ奴は日本じゃごろごろいるし、ソシアルダンスも社交ダンスもボールルームダンスも、区別をつけられる奴の方が少ねぇよ」
要は住んでいる世界が違うのだと辰巳が言えば、フレデリックはどうやら納得はしたようだった。だが。
「でも辰巳は踊れるんだろう?」
「女としか踊った事はねぇよ」
諦めようとしないフレデリックに苦笑が漏れる。男同士でダンスなど、どうして踊りたがるのか辰巳には不思議でならない。
「どうしてそんなに俺と踊りたがるんだ? 女と踊りゃいいじゃねぇか」
「つまらない付き合いで踊る前に、ご褒美があってもいいと思うんだけどな」
「はぁん? 褒美なんてダンスじゃなくてもいいだろ」
「ダンスパーティーだし辰巳と踊りたいと思うじゃないか。何もフロアで踊って欲しいって言ってる訳じゃないんだし…」
別に今更男同士で付き合う事に不満も何もないが、こういう話になると、女だったら何の問題もなかっただろうに…と、そう思ってしまう辰巳だ。むしろ自分が女であったなら遠慮なくフレデリックの差し出した手を取っただろうと、そんな詮無い事を考えてしまう。
いくら冗談で嫁だ旦那だと言っていても、どちらも男である事に変わりはないし、それを承知の上で付き合っているのだが。どうもこういった男女間であれば問題のない事に突き当たると色々と考えてしまうのは、やはりフランスでの一件があったからだろうか。
後継者。辰巳もフレデリックもそれぞれ次期後継者である。ヤクザと、マフィアの。それはいい。だが、その後どうするのかという答えを、辰巳はまだ出せないでいる。
フレデリックと別れるつもりがない以上、それは必ずぶち当たる壁だ。なるようになると、そう思ってはいても、どこか心の片隅に考えてしまう自分がいる事を辰巳は自覚していた。
「まあ、気が向いたら踊ってやるよ。リーダーしか出来ねぇけどな」
そう言って辰巳はフレデリックの頭をわしわしと掻き回すと、落ちないように抱えながら寝台の上に上体を起こした。そろそろ、煙草が吸いたい。
辰巳が床に立つよりも早く、フレデリックが寝台から下りてリビングへと向かうのはいつもの事だ。朝は必ず、フレデリック自らが火を点けた煙草を辰巳に渡す。そしてフレデリックも最近朝だけは一緒に煙草を吸うようになった。咥え煙草でコーヒーを淹れるフレデリックを、辰巳はソファからぼんやりと眺めるのだ。
コトリと辰巳の前にカップを置いて、フレデリックもソファに身を預けた。口には出さずとも、何があってもこの穏やかな時間を守りたいと思うふたりである。
それまで僅かに身を寄せていたフレデリックが、甘えるように辰巳の躰を抱いた。
「辰巳…一緒に居たいと無理にお願いしておいて言うのもなんだけど…無茶はしないで欲しい」
「お前な、少しは信用しろよ」
「分かってはいるけどね…やっぱり心配になるんだよ。キミは…たまに無謀な事をするから…」
過保護なくせに我儘を言い、そして心配だと言う。本当に可愛くて仕方がない嫁だと、そう思う辰巳である。
「俺はお前に手伝えって言われんのは、嫌いじゃねぇよ。クリスが言ってたように、そう危なくもねぇのかも知れねぇけどな」
「万が一辰巳に何かあったら…僕は一生自分を恨むよ…」
背中に回されていたフレデリックの手が、腰へと滑り下りて辰巳の傷痕を辿った。もうだいぶ昔についたそれは、辰巳がフレデリックを守った時についたものだ。
あの時と同じ思いはしたくないと耳元で囁くフレデリックに、辰巳は喉の奥で嗤った。
「万が一俺に何かあってお前がお前を恨んでも、そのぶん俺が愛してやっから安心しろよ」
「その分だけ…?」
「さあな」
たまには風呂に浸かるかと、そう言った辰巳にフレデリックが立ち上がる。空になったカップをキッチンに運び、式典の前に食事ができるよう時間を調整してルームサービスをオーダーするフレデリックは、本当に出来た嫁だ。
ゆっくりとふたりで風呂に浸かり、汗が引くまでソファで冷たい飲み物を飲みながら寛ぐ。
もちろん、その日着る服を選ぶのもフレデリックの務めである。普段からドレスコードが設けられている船内で、旦那様をより男前に魅せるのも、立派な嫁の仕事だろう。
その日フレデリックが辰巳のために選び出したのは、ダークグレーに薄くストライプの入ったスリーピースだった。ベストとタイは黒。辰巳の髪と瞳の色によく似合うと、フランスでフレデリックが選んだものだ。
毎日の服選びももちろん楽しいが、こういったフォーマルな場所へ赴く時の服選びには気合が入るフレデリックである。誰と並んでも見劣りなどさせるものかという勢いだ。
まあ、だからといって辰巳の振る舞いが変わるかといえば、答えはNOだ。何を着ていようとどこにいようと辰巳は辰巳のままである。着るものになどあまりこだわりのない辰巳は、フレデリックが用意したものを大人しく着るだけだ。
だが、その日は着替えの最中に不満の声が上がった。やはりきたかとフレデリックが振り返った先に、ベルトのようなものをだらりと下げた辰巳の姿がある。
「おいフレッド…コレは…要らねぇだろ」
辰巳の手にぶら下がっているものは、ホルスターである。相手が銃を所持している以上、いくら引き鉄を引かせるつもりがなくとも同等の武器は必要だ。そうフレデリックが言えば、辰巳はあっさりと銃をそのまま腰のベルトに差し込んでしまった。
「これでいい」
「駄目だよ辰巳。それじゃバレる」
「こういうもんはガラじゃねぇ」
ぽいっとホルスターを投げ捨ててしまう辰巳に、フレデリックはがっくりと肩を落とした。
フレデリックが選んだスーツはどちらかというと細身のものだ。ショルダーホルスターならまあバレなかろうと選んでみたものの、やはり嫌がられてしまっては服を変えるしかない。
「もう! だったらスーツはこっちにしてくれないか!」
「はぁん? めんどくせぇな。最初から細身のもん選ぶんじゃねぇよ」
「今日くらい我慢してくれてもバチは当たらないと思うけどね!」
「丸腰でいいなら着てやるよ」
そう言って辰巳は銃まで寝台の上に放り投げてしまう。
「どうしてそんなにホルスターを嫌がるのかな!」
「だせぇ」
「そういう問題じゃないんだよ辰巳…」
日本人である辰巳にとって、銃は常時持ち歩くものではない。それはフレデリックにも分かっている。だが、だからといって毎回腰に差すというのは困るのだ。それに、むしろ銃など所持しているとバレてはまずい場所でこそ必要なのである。
「そもそも腰に銃を差すなんて言うのは論外! 痛むし目立つし抜くのにも時間が掛かる。良い事なんてひとつもないって言ってるんだよ僕は!」
フレデリックが言えば、辰巳は喉の奥で嗤いながら上着を脱いであっさりとショルダーホルスターを着けて銃を差し込んでしまった。
「辰巳…」
「まあ…正直なところ、俺の場合はこんな場所にある方が慣れちゃいねぇし、抜くのは遅ぇと思うがな。それ以外はお前が言ってる事の方が正しいだろうよ」
再び上着を羽織りながら何気ない口調で言う辰巳に、ただ単に納得が出来ずに嫌がっていただけなのだと、フレデリックは気付いた。辰巳は、納得できない事にはテコでも動かない。代わりに、納得してしまえばあっさりと非を認めるような男である。
どうも最近甘やかすことに慣れ過ぎていて、フレデリックはそれを忘れていたようだ。付き合いが長くなれば変わる事も多いが、本質など変わる訳もない。まして辰巳のそういうところは、変わって欲しくない部分だ。
思わず辰巳を抱き締めるフレデリックである。
「ごめん…辰巳」
「あぁん? 甘やかすのは構わねぇが、言わなきゃなんねぇ事はきっちり言えよ。最初からな」
こうして今日も辰巳は大人しく(?)フレデリックの選んだ服を身に纏うと、しっかり用意された食事を平らげたのだった。誕生日であろうと何であろうと、辰巳にとっては変わりのない一日の始まりである。
一度午前中に顔を出したクリストファーと別れ、辰巳とフレデリックが式典の行われるダンスフロアに到着したのは、開場の一時間ほど前である。
一応当日のひな壇やテーブル、その他機材等の配置図を見て場所は頭に入っていたが、変更になる場合も十分予測できた。それに、実際に見てみない事には動線の確認も難しい。
スタッフや会社の人間が行き交うフロアを、辰巳とフレデリックはゆったりとした足取りで歩いた。配置図との変更点は、二か所だけだ。どちらも仕事に支障をきたすようなものではなさそうな事に安堵する。
招待客が入ってどの程度の視界を確保できるのかは分からないが、辰巳とクリストファーは上部バルコニーとフロアに分かれて巡回しつつターゲットとなるイタリアンマフィアを探す事になっていた。フレデリックは、対象の傍で待機するという。
三百人という人数の中で、咄嗟にも対象の位置を把握できるようにと、フレデリックは白いスーツを身に纏っていた。これから結婚式か何かと見紛うほどの目立ちっぷりである。
変わらず左隣を歩くフレデリックを横目で見遣り、辰巳は小さく息を吐いた。見慣れているのに思わず見とれてしまいそうな男前だ。よくもまあこんな男が自分に興味を持ったものだと、それは辰巳がいつも思う事である。
「そんなに見惚れられると、さすがに照れてしまうよ辰巳?」
「物好きな奴だと思って見てただけだよ」
関係者しか居ないとはいえ明らかに二人とも目立ってはいるのだが、辰巳もフレデリックも周囲の視線を気にはしなかった。ゆっくりと歩くフレデリックが、辰巳の肩に腕をかけて耳元に囁く。
「キミはもう少し、自分の魅力を自覚した方が良いね。キミほどの男前を、僕は知らないよ」
「お前に言われっと、嫌味にしか聞こえねぇよ」
姿かたちだけであれば、辰巳とフレデリックよりも綺麗であったり、見目の良い人間はいるだろう。二人の知り合いにも多くの有名ブランドと契約しているモデルが居るが、その青年はずば抜けて容貌が整っている。
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