365人が本棚に入れています
本棚に追加
研究室棟を出ると、空気がじっとりと肌にまとわりついてきた。七分袖のシャツにしておいてよかった。
「もうすっかり夏ですね」
「はは、梅雨入りはこれからだよ」
言葉とは裏腹にからりと笑い返してきた小笠原は、よく行く銀座ではなく、渋谷で電車を降りた。神泉方面へと坂を上がっていく。平日でも騒がしいスクランブル交差点辺りとは打って変わった雰囲気で、隠れ家のような飲食店が点在している。
「ここだ」
そのひとつに、小笠原が無造作に入った。
テーブルと椅子は素朴なライトベージュで統一され、イエローの壁紙とあちこちに置かれた植物が北欧風を演出している。ただ、五組も入れば満員と思われるささやかさだ。
誰も応対に出てこないが、小笠原は構わずテーブルに鞄を置いた。
ドアに「準備中」のプレートが掛かっていたのが気になる。たとえ小笠原が得意客でも、まだ夕暮れの時間帯では充分な仕込みができていないのではないだろうか。
そんな心配をしていたら、小さな足音が聞こえてきた。
「ママ! お帰りなさい」
最初のコメントを投稿しよう!