喜び

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 玄関扉はそろりと開ける。四畳半と六畳の和室と、二人用のテーブルと仏壇でもういっぱいになってしまうダイニング。それが母子の住み処のすべてだった。赤地に白いラインが光るバッシュを脱いでいると、手前の部屋のふすまから、美樹がむくんだ顔を覗かせる。 「おかえり」  どれだけ気をつかっても、美樹は毎日、塙矢の帰りにあわせて起きだし、コーヒーをいれる。夕方六時半。美樹が夜の仕事に出かけるまでのひとときを二人は、長年つきあった恋人のように過ごしていた。 「コーヤ、なんかええことあったの」  カフェテーブルに肘をついて、美樹が言った。化粧前の、ここ一年ほどで小じわの増えた顔から目をそらす。爪をさすっているのがわかって、あわててコーヒーに手を伸ばした。塙矢には興奮すると爪を触るくせがあった。 「べつに」 「アンタわかりやすいんやから、嘘ついたってあかんの。どしたん、彼女でもできた」  コーヒーが気管にはいり、派手にむせた。つい一時間ほど前のことだ。図らずも告白の機会に恵まれ、図らずも初めての彼女というものを得た。いつも以上に玄関扉をゆっくりと開け閉めしたのには、特別起きてほしくない事情があったからだったが、美樹はいつもどおりに起きだし、そして母親らしい鋭さで塙矢の興奮の理由を突きとめた。 「まあ」  悪ノリのつもりで言っていただけだった美樹が、今度は吹きだす番だった。手にかかったコーヒーの飛沫を水で流しながら、おめでと、と言った。第三者の祝辞が加わることでようやく現実味を帯びてきて、新たな興奮の波が起こりはじめる。塙矢は自分の人生にこんな明るいできごとが起こるとは思っていなかった。  質問攻めに遭う覚悟はできていたのに、予想に反して美樹は仕事の愚痴、お客さんから聞いた話などをしてから、学校どない、と当たり障りのないことだけを尋ねてきた。内心ほっとしていたが、美樹はそうやってうまく口車に乗せ、自分から話させることに長けていた。  毎日この時間にコーヒーを一杯飲むと夕食の支度をはじめる美樹だが、今日は仏壇に向かい、線香をあげた。
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