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 なんとここは、先生だけではなく、父もお気に入りの店だった。  出掛ける間際に先生が仄めかしていた、僕とこの店の縁とは、常連客である父のことを指していたのだ。 「彼はこちらのご家族とも親交があるので、季節毎のご馳走も毎度欠かさずお贈りしているようですよ。というわけで、はい、これ」  そう言って、先生は瓶詰めが入ったあずま袋を僕に差し出す。  どうやら、父の代理として、こちらのご家族に渡せということらしい。 (お遣いの続きって、そういうことか)  預かったあずま袋を手にして眺めていると、ふとあることを思い出した。 「そう言えば、父さんが偶に、山盛りのカンパーニュを持って帰ってくるんです。あれってもしかして、こういう品を貰ったこの店からのお返しですか?」  ほぼ確信のある憶測に、案の定、先生も笑顔で頷いてみせる。 「ご縁あっての物々交換といったところですかねえ」 「やっぱり」  これまで語られなかったカンパーニュの出処が、まさかこんな形で判明するとは思いもよらなかった。  あの、人付き合いの苦手な朴念仁のことだ。カンパーニュの出処を伏せていたのも、どうせ、お気に入りのこの店でのひと時を、できるだけ独り占めしたいとかいう理由なのだろう。 「今回、僕をここに寄越したのは、どういう風の吹き回しなんだか」 「ああ、それは私の判断で――「あー! 川でたすけてくれた人!!」」  父の思惑に首を捻る僕に、先生が口を開いて何かを伝えようとする。  しかし、それは途中で元気のいい声に遮られた。  声の主は、僕達の目の前で、焼きそばパンを握り締めた鼻タレ小僧で、彼はつぶらな瞳を輝かせて、僕を容赦なく指差してくる。  鼻タレ小僧……もとい、少年は七歳くらいだろうか。  残念ながら、僕にはこの子に会った記憶がないのだが、彼は僕を誰かと勘違いしているのだろうか。 (というか、川ってあの川?)  少年の口から出たキーワードから咄嗟に思い浮かんだのは、つい一時間程前、膝までどっぷり浸かったあの川だ。  ひょっとして、子狸を救けたのを見ていたとか? 「こら! 里一(りいち)、お店で騒がない!」  慌てて駆けつけた店員が、少年の口を塞ぐ。  しかし、里一と呼ばれた少年は、口を塞がれただけではめげやしない。 「母ちゃん! この兄ちゃん、川でおぼれてたおれをたすけてくれた兄ちゃんだよ!」 「あんた、さっきびしょ濡れで帰ってきたのって、川に落ちたからなの?! 救けてくれたって……あらヤダ! 古本やさんトコの」  なんだか、いきなり騒がしくなってきた。  しかも騒動の理由は、どうやら僕にあるらしい。……当の僕には、事情がまったく把握できないのだけれど。 「マドカ君、ウチに来る途中、川でなにを救けたんですっけ?」  わけがわからず、ただ親子のやりとりを静観していた僕に先生が問う。  答えを知っているのに、わざわざ確認するなんておかしい。  ひょっとして、彼はことのあらましをわかっているんじゃないか? 「子狸です」 「うん。リー坊、こちらに」  僕の返答に頷いた先生は、すかさず里一を呼び寄せて背をこちらに向けさせ、トレーナーの裾を僅かに捲る。  捲った裾から覗いたのは、ズボンの履き口から出た、先端だけが黒い、枯葉色のふさふさした尻尾。  ……確か、川で救けた狸もこんな毛色じゃなかったっけ。 「まあ、つまりは、そういうことです」  背後で心配そうな表情をするパン屋の奥さんとは対照的に、先生はにっかりと悪戯っぽく笑って見せた。
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