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つけ込まれないように、この世界で弾き出されないように、他者から攻撃を受けても軽傷ですむように、いつからか自分の意志をセーブするようになった。
智也さん、とクロに呼ばれる。
「昨日はごめんなさい。逃げてごめんなさい。オレ、あなたに着いていけばよかった。後悔しています。信じる人を間違えた」
クロの気配が遠くなっていく。
「今日はとても楽しかったです。ありがとうございました。どうか、幸せに暮らしてください。さようなら、智也さん」
瞼の裏に強い光を感じ、起き上がる。
葛西はアパートのベッドの上にいた。
クロとユイトはいない。
「夢?」
呟き、額に手を当てる。
掌はひやりと冷たかった。
午前六時半。
やけに体が軽い。
疲れがどこかへ行ったようだった。
テレビをつけ、ニュースを読むアナウンサーの声を背にトイレへ向かう。
内容はわからないが、アナウンサーの女は重々しくニュースを伝え続けている。
トイレから出た葛西はテレビに映される古びたアパートを、他人事のようにとらえた。
この建物で何かがあった。
最近は暗いニュースが多い。
ニュースは暗いものだと定義づけられそうなくらい。
顔を洗いに行こうとし、アナウンサーが口にした猫という単語に呼吸を止めた。
「容疑者は公園で毒の入った餌を与えていたとのことです」
振り返る。
画面では見慣れた公園の映像が流されていた。
「クロ……」
その響きを聴き入れた瞬間、洋風な喫茶店の透明なドアや動かないビー玉、神だと名乗ったユイトやあどけなく笑うクロが脳を駆け抜けた。
今日も出勤しなくてはいけない。
わかっている。
面倒事を背負い込みたくないなら、せめて上司に休暇の電話をしろ。
わかっている。
葛西は上着を羽織り、鍵と財布とスマホを握りしめてスニーカーを履き、部屋を飛び出した。
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