忘れ得ぬあの味…

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  ……そうか。あれは捜査中の刑事だったのか……それで、ついに店主は逮捕されて店を閉めることに……。  となると、あの貼り紙は店主が連行される際に警察へ頼み込み、自分の手で貼っていったものなのだろうか?  それどころではない状況でも客への礼を忘れないとは、なんともまあ律儀なことである。  私はそんな客思いの店主の行動に、これもまた場違いなことではあろうが、密かにいたく感心してしまう。  ……にしても、ということは私達はずっと、あの骨(・・・)で出汁をとったラーメンをうまいうまいと食べていたということになるのか?   こんな時、普通ならば、酸っぱいものが胃の奥から込み上げてきたり、吐き気を催して口を手で覆ったりするのが、人間としての自然の反応なのであろう……。   しかし、あのスープを使ったラーメンを思い浮かべた私は、むしろ逆に生唾が口内を満たし、思わずヨダレの垂れそうになるのを必死に堪えていた。   今ならば、そんな鬼畜の所業を為してまで、あの非人道的なラーメンを作り続けた店主の気持ちがわかるような気がする。   すべてを知ってしまった今でさえ、やはりあの一杯がもう二度と味わえないかと思うと、なんとも淋しく、例えようのない喪失感に襲われる。   きっと、さっき話を聞いた男も含め、他の常連客達も私と同じ感情を抱いているに違いない。  いかにもチャルメラの音が似合う、すべてが美しくも物悲しげなオレンジ色に染め上げられた夕暮れ時、騒めく人だかりの喧騒に耳を澄せば、ズズッ…とヨダレを啜る音があちこちから聞こえていた……。                                 (忘れ得ぬあの味… 了)
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