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「こんばんは」
おそるおそるカウベルを鳴らして入店すると、以前とまったく変わらない彼の挨拶と笑顔が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、小春さん。こちらのお席へどうぞ」
無沙汰の件に触れるようなことは何も言わない。
そういうところが、ありがたかった。
「今日はいちだんと冷えますね」
「こういう日こそロシア料理ですよ」と吏那人は得意げに言った。
「『冬将軍』はロシア生まれですからね」
「え、冬将軍て本当にいた人なんですか?」
「いえいえ、ナポレオンのロシア遠征のときに初めて使われた単語らしいので」
「そうだったんですか! 知らなかったです――」
90へぇですね、と言いかけて、小春は口を噤んだ。
迂闊にまた死滅した表現を使うところだった。危なかった。
吏那人は相変わらずの洗練された所作で椅子を引き、小春のタイミングに合わせて押してくれる。椅子自体が小春を待ち受けて動いているかのような自然さだ。
「今日のおすすめは何ですか?」
「そうですね、ビーフシチューの壺焼き《ガルショーク》セットはいかがでしょう? 体が温まりますよ」
「じゃあそれでお願いします」
「かしこまりました」
ガルショークは、こんがりと焼けたパイ生地をかぶせた壺の中にビーフシチューを詰めたもので、煮込んだ柔らかい牛スネ肉と、大ぶりのキノコやニンジンがコクのあるデミグラスソースをまとい、なじみ深くもありながら、日常では味わえない一種高級な満足感をもたらす。
やっぱり月寒食堂は最高のお店だ、と小春は改めて思った。
その事実に変わりはない。たとえ、店長にお似合いの恋人がいたとしても――
そのとき、いささか乱暴にドアが開けられ、「こんばんはー」と女性の声がした。
案内されるよりも先に店内に入り、「ウォッカちょうだい」と小春の隣のカウンター席に陣取ったのは、例の隻眼の美女だった。
「博士、お客様ならそれらしくふるまって下さいよ。ほかのお客様にご迷惑ですよ」
厨房から顔をのぞかせた吏那人に「ハイハイ」と手を振り、彼女は呆気にとられている小春の方を見た。
「あなたが例の常連さんね。いつも、すごく幸せそうに食べてくれるお客さんがいるってリナトから聞いてます」
「えっ、そ、そうなんですか……」
恥ずかしいやらありがたいやら複雑な感情で、小春はもじもじした。
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