水に描いた肖像画

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 冷たい校舎のひっそりとした一角にその教室はあって、そこだけはいつも別世界だった。空気も、音も、匂いも、何もかもが、他のすべての場所とは違う、ひんやりと心地よい清らかさを保っている。  その場所に集まるのは大抵、他の人とは少し違った空気を持っている人達だ、と客観的には思うけれど、はたして、自分も"他の人"から見ればそうなのかと言えば、それはよくわからない。  何はともあれ、今日も今日とて私は美術室に身を置き、色と戯れている。 「祐介」  声をかけた時、祐介は、水道で筆を洗っていた。なに、と私の方を見ないで返事する彼の声は、流水にかき消されるほど小さくて、もっと言えば、水に同化するくらい、水みたいな声。小さいけど耳に浸透して不思議とよく聞こえる、透明な声だ。  名前を呼んでみたけれど、特に用事はない。私は何事もなかったかのように筆を動かし続けるし、祐介もそれ以上気にしないまま、水道をきゅっとひねって水を止める。ぽたぽた、何粒か水滴が垂れて、それから美術室は静かになった。  別に用事もないのに声をかけるなんてしょっちゅうで、私も祐介もあまり気にしない。ただ、お互いがちゃんとそこにいるか、そして自分がちゃんとここにいるのか、確かめたいだけ。じゃないと時々、わからなくなるから。没頭しすぎると、音が消えるから。何が現実で、どこまでが実在か、わからなくなるから。だから時々、確かめる。それだけのこと。  祐介は珍しく、水彩画を描いていた。この前出品したコンクール、あれは2年生では快挙の入賞。それは油絵で、なかなか美しい絵だった。特選をもらった牧野先輩の絵にはちょっとかなわないけど、私は好きだと思った。水とか月とか空とか夜とか、そういった類の、独特で静謐な世界だった。  上手い、と感じる絵は多くある。どうしてこんな絵が描けるのだろう、と嫉妬したくなることも。けれども祐介の絵は、そういったものとは違っていて、そこにもうずっと前からあったみたいに、ずっと前から知っていたみたいに、失くしたことさえ忘れていたのに喪失感だけ残っていたものをやっと取り戻すことができたときみたいに、しっくりきて、悲しいくらいほっとできる、そんな絵なのだ。
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