水に描いた肖像画

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 それは、知っている。光の中にあふれるやわらかいきらきらをそのまますくい取って、集めて花束にしたような笑顔がまぶしい、春の女神の絵だった。そのモデルが誰か、わからない人なんて、少なくともこの美術部にはいない。髪型も顔の造形も何もかもが違うけれど、それは間違いなくあの人だった。美術部員ではないけれどたまにこの美術室に遊びに来る人で、牧野先輩の絵を愛しそうに見つめたり、先輩がいない時は、他の美術部員、たとえば私達なんかに、話しかけたりする人。名前は知らないけれど、いつでもふふふと笑って、ひんやりとした美術室の空気を、ぼんやりとやわらげるあの人。  いつも無口か無表情な牧野先輩も、あの人がいる時だけは、雰囲気がやわらぐ。あの人を見つめるまなざしは、とてもやさしい。たぶん先輩は自分で気がついていないだろうけれど、何よりも。あんな風に見つめながら描かれた絵だからこそ、あれだけの光を放ったのだろう。元々の技術と想いとが重なって、それは足し算でもなくかけ算でもなく、もっともっとすごい何かになった。その結果が、あの絵だった。  でも、それが私と、何の関係があると言うのか。私は筆を止め、久しぶりに祐介を見た。ちょうど祐介も私を見たところで、不意に目が合ってしまい、どきりとする。何を言われるのか、考えつきそうでいて、聞くのが怖いようでもあって、耳の奥がきーんと鳴る音まで聞こえるよう。そんな私のことはおかまいなしに、祐介は、次の言葉を紡ぐ。 「俺も、牧野先輩と同じように、やってみようかなと思って。 だから、彩深を描くことにした」  それはつまり祐介、どういうことだろう。一応考えるフリをして時間を稼ぐけれども、思考回路はとっくに正解までつながっていて、その速さに感情がついていかない。いや、むしろ感情の方が先走っていて、頭が追い付かないのかもしれない。なにしろ、勝手にほっぺたが熱くなって、なんでもない表情をするのにさえちょっと苦労するくらいなのだ。  不意打ちはやめてもらいたい。しかもまた、なんでもないことみたいに言うのだから、タチが悪い。祐介は、いつもそうだ。なんでもないことのようにさらりと、大切に大切に響くことをささやき、私の中にしっかりと色を落とし込んでゆく。
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