渡り風の犬、ジロー

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 女の子と母親はそう言って、祐一君が入っていくはずの玄関を開き入り、閉まってしまった扉の向こうで大きく「ただいま」と言った。ぼくはその一連の流れを、ぼくはまるで駒送りを見るように微動だにせず眺めていた。  この家は、ぼくの家じゃない?  この家は、祐一君の家じゃない?  ぼくは何も考えられないまま、玄関から小さな庭の方に移動した。この小さな坪庭はとてもよく覚えている。この家は、確かに祐一君の住んでいた家だった。庭を望む壁には大きな窓と気持ちだけの縁側があり、そこからリビングの様子を望むことができる。そこには見知らぬハンサムな男性、おそらく先ほどの女の子の父親が見知らぬソファに座ってテレビを見ており、女の子はあたたかそうな見知らぬ毛の長いラグの上で『注文の多い料理店』を読んでいた。キッチンの奥の方では、先ほどの女性、おそらく母親が、買ってきた品々の荷解きをし、冷蔵庫へしまっているところだった。  ぼくは、くんくん、とにおいをかいだ。  そして、やっと理解した。この街は懐かしいにおいがする。この家は懐かしい家である。でも、悲しいかな祐一君のにおいはしなくて、確かなのは、おそらくもうこの街には、祐一君はいないのだということだった。  ぼくはあてもなく街を歩いた。あてもなく、あてもなく、ただたださ迷い歩いて、そうして歩き疲れた後に、街が見渡せる丘の、一本の大きな桜の木の下へとたどり着いた。ひどく懐かしいにおいがした。祐一君のにおいはしないけれど、そこはぼくの初めての記憶。祐一君と、ぼくが出会った場所だった。  あのときは満開の桜がひらひらと、静かに散る音を奏でていたように思う。けれども今この桜は五分咲きで、どっちつかずな半月の、冷ややかな光に照らされて闇に青く浮かんでいる。  呆然としたぼくは、その桜の下にそっと腰を下ろした。  ぼくが探し求めたもの。それはこの街にはなくって、そしてたった一つの手がかりさえ、失ってしまったのだと知った。では、ぼくはどこに行けばいいだろう。ぼくが追い求めていたものは、きっと本当に無駄だったのかもしれなかった。どうしようもなく都合のいい幻想で、どうしようもなく頭の悪い雑種の思い込みなのかもしれなかった。
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