渡り風の犬、ジロー

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 ミイヤさんは、ぼくに一人で生きる術を教えてくれた。エサの探し方、狩りの仕方、安全な寝床の探し方、野山の走り方に、地形の見分け方、四季のことについて。足音の消し方、威嚇の仕方、喧嘩の仕方に、不意のつき方、猫の天敵、犬と闘う方法から、人間からの隠れ方、冷蔵庫や戸棚、障子の開け方、木登りまで。  ミイヤさんは、一匹で何でもできる猫だった。いや、きっと自分が一匹だけで生きていくために足りるだけの知識や技術で構成された猫だったのだ。ぼくがミイヤさんの指導を受けている最中、ミイヤさんに言い寄る猫たちはたくさんいたけれど、そのすべてをミイヤさんは相手にしなかったし、しつこく迫るオス猫には恐ろしい剣幕と鉄拳を持って制裁した。  ミイヤさんのふさふさとした毛の下には、無数の傷が隠されている。ミイヤさんは、きっとお金持ちのおうちの飼い猫だったに違いない。それはきちんとイエネコ生活を送っていたのなら、つくはずもない傷だった。ぼくがミイヤさんと出会って半年と少し経つころ、ミイヤさんは言った。 『あたしたちは、結局のところ、一匹で生きていかなければいけないわ』 『なら、どうしてぼくに生き方を教えたの?』  ぼくが、猫の妙技と呼ばれる秘伝を伝授された日のこと。別れの日の朝である。  いつもはことばでは教えてくれないミイヤさんが、そのときは一つだけ答えたのだ。 『生き物は、夢を見るのよ。いい夢も、悪い夢も』  そのときのぼくには、ミイヤさんがなぜそんなことを言っていたのか分からなかったけれど、ミイヤさんは、そのまま新緑の森の木々を駆け上がり、枝に登ってぼくを見つめた。金の虹彩に、少しだけ細くなった静かな瞳。出合ったときと同じ朝焼けだった。 『ジロー、あなたはもう立派な成犬になった。もう、あたしに教えることは何もないわ。行くのでしょう?』 『うん』  ぼくは森の木々の合間を縫うように駆け出した。ミイヤさんが教えてくれた、走り方、地形の見方、身のこなし、その全てを見せるように、ぼくは駆けた。風に乗ったミイヤさんのにおいが遠くなっていく。もうミイヤさんには会えないかもしれない。振り返らないで、ぼくは走った。もしも振り返ってしまったら、ずっと山で暮らしていくのも、悪くないと思ってしまうだろうからだ。
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