farewell

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 ──それでも、かつて確かに想いはそこにあったのだと。  かすめるように触れた律の唇が、綴った。 「お兄ちゃんたち、ちゅーしてるの?」  と、すぐ傍らから、舌足らずで甘い声にそう訊かれ慌てて視線を下ろす。いつの間に入ってきたのか、小学校低学年くらいの少女が、大きな瞳をくるくるさせて律と深谷の顔を交互に見上げていた。どうやら習いごとへの往来の途中らしく、小さな手提げかばんを持っている。 「ねえ、ちゅーしてるの?」  好奇心いっぱいの様子で繰り返され、深谷は律と思わず顔を見合わせる。  それからふたり、声を立てて笑った。 「そうだよ。きみもパパやママにするでしょう? それと同じ。僕も、このお兄ちゃんのことが大好きだったんだ。だからしたんだよ」  目線を合わせるように身体をかがめて、律がやわらかな声で彼女の問いに応じる。大好きだった──今は過去形になった想いを、言葉とともに唇にのせて。 「僕の言うこと、分かる?」 「うん。だってまゆも、パパとママ大好きだもん。だからちゅーするの。そうするとね、ふたりともすごくうれしそうな顔になって、まゆにもちゅーしてくれるんだよ」  頬を紅潮させて楽しそうに話し続ける少女と律を背に、深谷はゆっくりと踵を返す。別れの言葉はもう、必要なかった。 「あ、お兄ちゃん、バイバーイ」
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