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farewell
坂の下を走る電車が、眠ったように動かない真夏の空気を揺らして過ぎていく。
窓の外に横たわるアスファルトが照り返しをつくり、薄暗い店内に緩やかなひかりの波線を描いた。
「──麦茶、ここに置くね」
どこか懐かしい古書独特のかび臭い匂いが、やわらかく周囲に満ちている。そのなじみのある感覚に深谷(ふかや)がぼんやりと身を浸していると、背の高い書棚のすき間から紺色のエプロンを身に着けた青年がひょいと顔を覗かせた。
「何? さっそくめぼしい本でも見つけた?」
目ざとく深谷が手にしていた単行本を認めて、律(りつ)がいたずらっぽく瞳を細める。そして、深谷の手からそれを取り上げると、表紙に書かれたタイトルを読んだ。
「『サファリ殺人事件』──ハクスリーか。ミステリ好きは相変わらずだね、深谷さん」
「お互いさまだろ。それにしても、相変わらずと言えばこの店もだな。ミステリ小説の品揃えが異常に良いところとか、あとは──」
「客足が遠いところとか?」
言いにくそうに語尾を迷わせる深谷のあとをさらりと継いで、律がおかしそうに肩をふるわせる。低い天井を旋回する古ぼけた扇風機の羽音が、彼の言葉を裏付けるようにがらんとした室内にやけに大きく響いた。
「そう、相変わらず。深谷さんがここにいたころと同じ。強いて言えば、店長が変わったことくらいかな」
「……店、畳もうとは思わなかったのか?」
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