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二階での話(志藤絢)
今日の晩はいらないから。そう言って夫が玄関のドアを閉めた後に残ったのは、初夏の外気とはうらはらに、効きすぎた冷房のせいで冷え切った我が家の空気だけだった。
「〝今日の〟じゃなくて、〝今日も〟でしょ……」
つぶやいた声は部屋の奥から聞こえてくる子供の泣き声でかき消された。夫が乱暴にドアを閉めるから起きてしまったようだ。朝までずっと夜泣きがひどくて、夫が起きる直前にやっと寝てくれたのに。これじゃ、今日もわたしは眠れそうにない。
「よしよし、いい子だから泣かないでね」
ベビーベッドで泣き叫ぶわが子を抱き上げてあやす。子供はかわいい。子供に罪はない。分かっているのに、泣きたいのはわたしのほうだと叫びたかった。
夫は今日も帰ってこない。外出先の素敵なレストランで、どこかの綺麗なお嬢さんと熱のこもった視線をかわし、かつてわたしにそうしたように恋をささやくのだろう。わたしは冷え切ったこの家で、泣き止まない子供を抱いて帰らぬ人を待ち続ける。羽を休める場所もなく、ゆっくりと眠ることすらかなわず、今日も子供のために食べ物をとり、夫のために家を整えるのだ。
「子供はかわいい、こんなにかわいい……。そう、子供はかわいい、かわいいの……。この子のためにも我慢しなくっちゃ……。いいママで、いい妻でいなくっちゃ……」
自分に言い聞かせるように言葉にすることで、嫌な思考を断ち切ろうとする。その姿はどこからどう見ても〝いいママ〟でも〝いい妻〟でもないだろう。
――どうしてこんなことになったんだろう。
腕の中で泣き叫ぶ子供を見下ろす。かわいいはずのわが子の顔が歪んで見えるのは、わたしが泣いているからだろう。
きっと、そうに違いない。
そうでなければいけないのだ。
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