二階での話(志藤絢)

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 妊娠中も彼は変わらず優しかった。つわりがひどいわたしをねぎらってフルーツを買ってきてくれたり、苦手だという家事を、それでもわたしに代わってこなしてくれたりした。病院には定期的に付き添ってくれて、出産の時にもずっとそばにいてくれた。生まれてきたわが子はかわいくて、「ありがとう」とわたしの頭を撫でてくれた彼の手の優しさに、わたしは本当に幸せだと涙がこぼれた。  彼が「大丈夫だよ」と言ってくれるだけで、どんなことも乗り越えられると思っていた。  最初に違和感を覚えたのは、退院してすぐ、冷蔵庫の中を見た時だった。栓の空いた少し高めのワインと食べかけの生ハム。一人でこんなワインを飲むだろうかと考えたけれど、まぁそういうこともあるかと冷蔵庫を閉めた。  けれど、違和感は日に日に強くなっていった。週に一度、深夜に帰宅する。突然香水を変えた。出産前は毎日やっていた〝いってきますのキス〟をしなくなった。仕事が忙しいとか、オシャレな人だからとか、必死に自分に言い聞かせた。子育てに慣れていないから過敏になっているだけかもしれない。母として、妻としてしっかりしなければいけないのに、そんなことばかり考えてしまう自分を責める日もあった。優しくてスマートな夫を信じていた。  そんなわたしを嘲笑うかのように、夫はわたしを裏切った。  夫は浮気をしていた。会社にやってきた派遣社員のかわいい女の子で、わたしとは真逆の、オシャレに気を遣う代わりに仕事はほかの人にやってもらうような、女子大卒のお嬢様だと以前の同僚が教えてくれた。  夫の浮気を知ってわたしが最初に覚えた感情は、失望だった。夫に対してではない、自分に対してだ。そういう人だという忠告を無視し、自分なら大丈夫だと過信した。必死に勉強して得た職も手放してしまったし、子供がいる以上軽率な行動はとれない。道を誤ったのも自分だし、退路を断ったのも自分。男に騙されるようなばかな女だったなんて、と。  わたしのストレスを感じ取ったのか、子供は情緒不安定なようだった。一日中、寝ても覚めても泣いている。家事に育児に疲れていても、結婚という大事な人生の選択を間違えたわたしには静かに眠る場所すらないらしい。
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