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香りは、やはり瑳和から立ち上っている。ささやかで、でも、逃れられない誘惑の香り。
「……いい匂いがする……」
「匂いって。真布由、どうしたの?」
虚空の視線を瑳和へと戻し、その正体を探した。顔、肩、胸、腕……指先で触れながら、辿っていく。
それから、真布由の好きな大きな手。
「あった……」
甘く香るわずかな蜜。まだ新しい蜜は、薄暗い電灯に小さく光っていた。
どこで、引っ掻いたのか、小さな小さな傷口。もしかすると、真布由が暴れたときにできた傷かもしれない。
真布由は、繊細なガラス細工を扱うように、そっと瑳和の左腕を掲げた。
「さわ……いい……?」
「布、由……?」
傷口へ唇を寄せると、瑳和の腕は抵抗なくその場に留まった。
「ちょうだい……」
上目遣いに見つめれば、戸惑いのサファイヤが不安定に揺れた。瑳和の目に映った自分は、まるでどこかの違う人間のようだ。
「……喉が渇いたの?」
「ウン……だから」
いいよ。耳元に瑳和が許可を囁いた。その声に、自然と頬が緩んだ。
渇いた唇を舌先で潤すと、もうその傷口しか目に入らなくなった。
それは、きっと、この世界でいちばん……。
唇が触れる瞬間、表通りを数台のバイクが走り抜けた。大音量の音楽と、不自然に改造されたマフラー音が静かな住宅街で響き渡る。
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