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僕ひとりが犠牲になれば、家族みんな幸せに暮らせるんだ。お父さんもお母さんも、弟も妹も。だから大丈夫。大丈夫。暗示をかけるように鏡の中の自分の目を見つめてその言葉を繰り返すが頭に浮かんだ男たちの姿が、声が頭から消えてくれない。
耳を塞ごうと腕を上げようとしたところで
バン、
と音を立てて横の襖が勢い良く開いた。
反射的に音のした方向を向くとそこには式場には似つかわしくない黒い革のジャンパーに黒のジーパンといった身なりの男が立っていた。
誰だろう。
こんな格好をしていてもここに居るということは式の出席者なんだろうけれど。
僕も固まっていたが、襖を開いた男も無言のまま僕の顔を見つめていた。開ける部屋を間違えたんだろうか。なら僕が部屋の案内をするべきなのかもしれない。
「ひとつ訊きたいんだが」
「え、あぁ、はい」
どう声を掛けるべきか悩んでいると男は部屋に入ってきて後ろ手で襖を閉めると僕の目の前に立って口を開いた。
誰か捜しているんだろうか。だとしたら僕を買った男のことだろう。そう向こうの質問に備えるが彼が発した質問は予想外のものだった。
「俺のことを知っているか?」
「え?」
「俺を知っているかと訊いている」
「いえ、存じませんが」
「じゃあ俺が誰なのか分からないんだな」
「えぇ、と。もしかして有名な方なんですか?」
「さぁ」
「さぁ?」
「実は俺も俺が誰なのか分からないんだ」
「自分が誰か分からない?えぇと、その、冗談ですよね?」
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