絶望と愛と希望の三重唱

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仕方なしに席をくっつけ、発表しなければならない作品を検証していく。それが芥川龍之介の「羅生門」であった。 『えー全然わかんなーい、もう教科書に書いてある解説テキトーに写そーよ』 『ばかたれそんなことしたらバレるに決まってるだろう死ね』 『うわぁサイテー』 そんな雑談をしながら、私は一人で作品の解釈を始めた。現代文の実力ならクラスの誰にも負けないと自負していたからだ。ましてや現代文が不得意な杏果である。これなら一人でやったほうが効率的だと考え、適当に相手をしながら着々と作業を進め、ついにレジュメにするまでこぎつけた。 『おいクソガキ、必要なことは全部ノートにまとめたからあとはレジュメにしといて』 そう言ってノートを渡し、内職しようとした時、杏果がポツリとつぶやいた。 『これ、多分違うよ?』 そう言って指差した先にあったのは下人の人物像についてであった。 羅生門を読んだことがある人ならわかるかもしれないが、下人は生と死の極限の状態で道徳と命の間で葛藤する健気な人物として、学習書や教科書に紹介されている。私もそれが正しいと思っていた。だが杏果の言い分はこうだった。 『下人って意外と余裕あるじゃん。それに芥川先生も作中で言ってるじゃん、センチメンタルって。カッコつけたかったんでしょ、こいつ』 『そ、そんなわけねえだろ。教科書にもそう書いてあるじゃねえか』 正直筋は通っていたし、後に現代文の先生の解説もそう解釈していた。 ただ認めたくなかったのだ、杏果に負けることが。自分よりも劣っていると思っていたやつが、実はそうやって振舞っていただけなど、考えたくもなかった。 結局私は自分の案を無理やり押し通した。でもその時からずっと、杏果に対する劣等感に支配されていたのだ。いや、ずっと昔からだったのかもしれない。彼女が死ぬほど憎かった理由は、彼女が私よりも優っていたから、いや私が欲しかった「もの」を彼女が持っていたからだった。 ようやくましになったと思ったら、実は気づかないうちにどっぷりとそのどろ沼にはまっていた。 最悪だ。 だからようやくそれに気づいた時、自分がただただ杏果に認めてもらうためだけに、杏果に勝つためだけに生きてきたことを思い知らされた。 文化祭も副実行委員長をやった。俳句で賞もとった。ビジネスの講座にも通った。そして海外の大学にも行った。
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