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◇ 第二話 藤堂学 ◇
そろそろクリスマスも近付き、街にはイルミネーションが溢れている。東京という土地柄、年中を通して煌びやかなネオンが輝いているものの、この時期は特に華やかだ。
寒いこともあって、街往く恋人たちの距離がいつもより近い気もする。
信号待ちをしながら目の前を通り過ぎる人々を眺め、藤堂はふとそんなことを思った。
いつもの帰宅時間より一時間ほど早く仕事を片付けたのは、今日が恋人の誕生日だからである。本当ならば休みを取ってどこか旅行にでも連れて行きたいところだったが、お互い忙しい身である。休みを合わせることが出来なかった。
会社を任されていると言えど、藤堂の立場としては雇われである。もちろん起業も考えなかった訳ではないのだが、今の会社の会長とは馬も合うし、なおかつ世話になった義理もある。次期社長となることが決定している会長の次男、篠宮悠悟(しのみやゆうご)が会社を背負って立つまでは、放り出すわけにもいかない。
―――長男をもらう代償なら、安いものだな。
恋人が知ったなら激怒しそうな事を、藤堂は思った。
藤堂の恋人とは、何を隠そう次期社長の悠悟の兄、篠宮啓悟(しのみやけいご)なのである。元々啓悟に家督を継ぐ気はなく、実際本人は起業して家を出ているし、藤堂の働く篠宮コーポレーションとはまったく関係のないところで生計を立てている。
だからと言って、啓悟が家を出る時に揉めなかった筈もなく…。その穴埋めに立候補をしたのが藤堂であった。
ともあれ、繋ぎとはいえそれ相応の待遇で働かせてもらっているし、藤堂の不満と言えば好きに休みを取れないといった程度のことである。
それに引き換え、啓悟は今日明日は休みだと友人の多田から聞いている。今頃は藤堂が迎えに来るのを待っていることだろう。
信号が青に変わり、藤堂は車を発進させた。
特に渋滞に捕まる事もなく、藤堂は啓悟のマンションの車寄せに停車すると、胸ポケットからスマートフォンを取り出し啓悟の番号を呼び出す。
『はい』
「俺だ。今、下に着いた。降りてこい」
『わかった』
何の飾り気もない会話。だが、啓悟の声が幾分弾んでいることに藤堂は気付いていた。
二十歳という若さもあってか、啓悟の機嫌はわかりやすい。仕事の時はポーカーフェイスだが、プライベートの、しかも藤堂の前ではまったく表情を隠そうとはしない。そんなところが可愛いなどと言ったら、本人はふてくされるだろうけれど。
やがて程なくして、ロビーの自動扉を抜けて啓悟が現れた。
相変わらずオーダーメイドのスーツを一部の隙も無く着こなした若き経営者は、藤堂と並んでもまったく見劣りしない。
「お待たせ。早かったな」
「そうでもないだろう。お前の方が待ったんじゃないか?」
「うん、待ってた」
素直に言って笑う啓悟の頭にぽんぽんと手を乗せてやれば、少しだけ照れたようにはにかんだ。
啓悟がシートベルトをしっかりと締めたのを確認して、藤堂は車をスタートさせる。
「どうしてそんなに前のめりになってるんだ?」
「助手席って新鮮じゃね?」
普段は運転手付きの高級車で移動することが多い啓悟にとっては、言われてみればその通りだった。
藤堂が啓悟と付き合い始めてからも、啓悟を助手席に乗せるのはこれが初めてのことだった。
「なんか、藤堂らしいよな」
「この車が?」
「車もだけど、運転も」
「そういうものか?」
「うん。安心する」
興味が削がれた訳でもないだろうが、ようやくシートに身を預けた啓悟がハンドルを握る藤堂に視線を向ける。
「そりゃどうも」
「今度は俺が藤堂を乗せてやろうか?」
小首を傾げる様に笑いながら問いかける啓悟に、藤堂はちらりと目をやる。
「お前、運転なんかできたのか?」
啓悟が運転している姿など、一度も見た事はない。それどころか、免許を取得していることすら知らなかった。
「出来るよ運転くらい。失礼な奴だな」
「俺からすればお前が車を持ってることに驚きだがな」
「はぁ? 持ってるよ車くらい」
拗ねたように言う啓悟に、藤堂は苦笑した。付き合っているとはいえ、知らないことが多すぎる。
「何に乗ってるんだ?」
「エンツォ」
あっさり告げられた車名に、藤堂は思わず噴き出した。エンツォ・フェラーリ。その名の通りフェラーリなのだが、創始者の名を冠された限定生産車としてあまりにも有名だ。
「………」
「なんだよ」
思わず絶句した藤堂の反応が気にくわなかったのだろう、啓悟がますます不貞腐れていく。
「悪かったな、似合わなくて」
「そうじゃない。逆だよ」
「はあ?」
「似合うと思うぞ?」
経営者としての啓悟の顔の方を良く知る藤堂としては、年相応な趣味がある事になんとなくほっとしてしまう。
「じゃあ今度隣に乗せてやるよ」
弾んだ声で言う啓悟に頷くと、藤堂はしばし運転に集中することにした。
華やかにイルミネーションが煌めく街を抜け、高速へと車を向ける。
「そういえばどこに行くか聞いてなかった」
東京から西へ進路を取ったところで、啓悟がふと口を開いた。
「鎌倉だ」
「えっ、泊まりかよ? 俺、着替えも何も持ってきてないぞ」
「現地で調達すれば問題ないだろう?」
「そっか、じゃあ藤堂に選んでもらおーっと」
歌うように啓悟は言うと、こてん…と藤堂の肩に頭を乗せた。夜ということもあって、あまり周囲を気にした様子はない。シャンプーの香りに鼻腔をくすぐられ、藤堂の腹の底に幾ばくかの欲望が渦巻き始める。
無邪気に寄りかかる啓悟の髪を軽く撫でつつ、夜の高速を飛ばす。会話がなくても十分幸せな時間だと藤堂は思った。
やがてゆっくりと啓悟の頭が少しずつ下がっていることに気付いた。耳を傾ければ、穏やかな寝息が聞こえてくる。そのまま落下しないように、藤堂は片手で器用に啓悟の頭を支えながら足の上に下ろしてやる。
コンソールのギアボックスが些か邪魔だが、そのまま寝ている啓悟の頭の重みを太腿に感じながら、藤堂は目的地へとたどり着いたのだった。
予約を入れている旅館に着く前に、藤堂は車をコンビニの駐車場に入れた。啓悟を起こすためだ。
「啓悟、起きろ」
言いながら頭を撫でると、啓悟がゆるゆると体を起こした。
「ぅえ? 俺寝てた?」
「あぁ、ぐっすりな」
「ごめん…」
運転させたまま寝ることなど日常茶飯事だろうに、律儀に謝る啓悟に藤堂は微笑んだ。
「お前が安心してる証拠だろ、気にするな」
「でも…」
「それ以上何か言うなら、今ここで唇を塞いでやってもいいが?」
俯いて何かを言いかける顎を捉え顔を近づければ、啓悟が押し黙る。
「それでいい」
素直に言う事を聞く啓悟に満足したように頷いて、藤堂は再び車を走らせた。
程なくして到着した小さいが手入れの行き届いた旅館には、車寄せに出迎えが出ていた。
「藤堂様、お待ちいたしておりました。こちらで車をお預かり致します」
丁重に出迎えた男の胸には、支配人という肩書のついたネームプレートが付いている。
フロントで手続きをすることもなく案内されたのは、小さな離れだった。
広い二間続きの和室には既に布団が据えられており、露天風呂も付いている。藤堂と啓悟が腰を落ち着けると、女将らしき品のある女性が次いで顔を出した。
「お久し振りでございます、藤堂様。お食事は、すぐにお持ちしてよろしいでしょうか?」
「ああ、頼む。遅い時間に済まないが…」
「いえいえ、とんでもないことでございます。すぐにお持ちしますので、今しばらくお待ちくださいませ」
言葉通り嫌な顔など微塵も見せずにこやかに告げて、女将は部屋を後にしていった。
女将が退室したことを確認して、啓悟が中庭に面した窓に歩み寄る。露天風呂からも眺められるようになっている中庭もまた、この離れの為に作られているようだった。
中庭を眺める後ろで藤堂がスマートフォンを取り出す気配に、啓悟はちらりと視線を向けた。
「明日の服の希望は?」
「藤堂に任せる」
啓悟の言葉に藤堂は一つ肩をすくめると、電話をかけるために立ち上がって入り口へと移動した。
藤堂の電話が終わるとすぐに外から声が掛かり、女将が数人の仲居と共に現れた。料理の説明もそこそこに、配膳を終えてすぐにまた二人きりになる。
並べられた料理はどれも美味そうだ。
「日本酒だが、飲むか?」
「少し…」
あまり酒に強くはない啓悟だが、乾杯程度は付き合ってくれる気でいるらしい。藤堂が注いだ杯を手に、二人で乾杯する。
「誕生日おめでとう」
「ぷっ、日本酒で誕生日とか…俺初めてかもしれない」
なんとなく誕生日と言えばケーキとか洋風なものを想像してしまうだけに、日本酒というのも斬新ではある。
「ホテルでディナーの方がよかったか?」
「いや? ここがいい」
そう言って啓悟は盃を傾けた。
「そうか」
食事時に多くを語るのは無粋というもの。しばらくふたりは目の前の食事に集中すると、あっという間にテーブル狭しと並べられた料理を平らげてしまった。
「はぁー…満足」
美味い料理と酒を堪能した啓悟は、畳の上にごろんと転がった。
「皴になるぞ」
「今日くらいいいだろー?」
「酔っぱらってるのか?」
少しと言っていた割には飲んだ気もするが、酔うほどの量は飲ませた覚えはない。
「うん、酔ってる…」
いつもなら否定するだろうに、今日の啓悟はいつもよりも素直なようだ。
食事の片付けをするようフロントに告げて、藤堂は酒を煽った。
「まだ飲んでんのかよ」
「お前と違ってそんなに弱くないからな」
「風呂で倒れても知らないからな」
「万が一倒れたらお前に介抱してもらうさ」
笑いながら軽口をたたいて、藤堂は盃を傾けたのだった。
専用の露天風呂は、こじんまりとしているが十分広く、長身な藤堂と啓悟が足を伸ばしても余裕があった。
中庭に植えられた笹の葉がサラサラと風に揺れる音と、かけ流しで絶え間なく流れる水音が、都会での生活を忘れさせてくれる。
「あー…癒される…。たまにはこういうのもいいよな」
「そうだな」
「うん。明日は藤堂も休みなんだよな?」
温泉に浸かっているせいか、少しだけ上気して赤い顔の啓悟が小首を傾げる。
「緊急の連絡がなければ、だがな」
「ははっ、それは俺も同じ」
お互い責任のある立場である。余程のことがない限り優秀な部下たちが処理をしてくれるだろうが、最終的な決済やらの承認など、急遽相手方から求められる事もあるのが会社というものだ。
「啓悟」
「ん」
藤堂が手招きすれば、啓悟は素直に体を寄せてくる。背中から抱き締める様に啓悟の体を包み込んで、藤堂は無防備な首筋に口付けた。
「っ…ん」
啓悟の口から堪えるような吐息が漏れて、ぴくんと肩が震える。
「相変わらず反応が良い」
「お前の触り方がいちいちエロい…っだよ」
「ほう? なら、期待に応えないとな」
「な…んっ、んんっ、…っふ、く…ぅん」
片手で胸の突起を摘み上げ、もう一方で内腿を撫で上げてやると、甘い声が漏れる。
「こっちを向け」
「え…? あっ」
言うなり軽々と啓悟の体を自分の方に向き直らせて唇を塞ぎ、引き締まった臀部を無造作に揉みしだいた。
「んっふ、…っあ、とぅ…ど…ダメ…」
「ダメ? ここは、物欲しそうにひくついているが?」
たいした抵抗もなく啓悟の窄まりが藤堂の指を飲み込む。逃げるように体をずり上げる啓悟の胸の飾りを、藤堂はここぞとばかりに口に含んでしまった。
「ああっ、…あっ、く…っ」
舌先で押し潰すように突起を舐め上げ、ときおり軽く歯を立てるたびに啓悟の体が敏感に跳ねた。同時に、中に入り込んだ指を締め付けられて、藤堂の口許が歪む。
中に埋め込んだ指をぐるりと大きく回してやれば、なす術もなく快楽に翻弄される啓悟の眦から生理的な涙が落ちる。
「っあ、それ…っ、らめ…」
「駄目? お前のここは、もっと欲しがっているみたいだが?」
「それ以上…したら、あっ、お湯…汚しちゃ…」
藤堂の肩口に額を擦り付けてイヤイヤをするように啓悟が懇願する。
「汚せばいいだろう? お前の、はしたない体液で」
わざとらしく羞恥心を煽ってやれば、それだけで啓悟の後孔が卑猥にひくついた。
「や…だぁ…、あっ、ぅ…んっ」
「俺の指を締め付けて放そうとしないのは、お前のここだろう? こんなに締め付けておいて、どの口が嫌だなんて言ってる」
「あ…だって…もっ、でちゃ…う…」
啓悟は藤堂の背中に爪を食い込ませ、今にも吐き出してしまいそうな欲求を必死に堪えている様だった。が、藤堂が願いを聞き入れるはずなどなく…。
「出せばいい。誰も我慢しろなどと言ってないだろう? 好きなだけ吐き出せよ」
「っや、お願ぃ…とぅ…ど、ここじゃ…やらぁ…っ」
啓悟の懇願に、ふと藤堂が何かを思いついたように動きを止める。
「っあ…は…っ、はっ…ぅ」
「そんなにお湯を汚したくないのなら、俺が飲んでやろうか」
「ッ…何…言って…」
「ここで出すのは嫌なんだろう? だったら、俺に飲んでくださいって懇願してみせろ」
「そん…な、無理…っ」
唐突に突き付けられた条件は、はいそうですかと揚々と飲み込めるものではなく…。
「なら、そのまま吐き出せばいい」
どちらでも構わないと、藤堂は再び啓悟の裡に埋めこんだままの指を蠢かせた。
「あっ、やっ、だ…め、だめ…っ、言う…っ、言うからぁっ」
湯を汚して旅館の人間に情事を知られる羞恥を思えば、藤堂に恥ずかしいお願いをする方がまだマシだった。
「うん?」
「ぉ…願ぃしま…、俺の、飲んで…くださ…っ」
「くくっ、本当にお前は……」
楽しそうに藤堂は笑って、啓悟の身体から指を引き抜くと、そのまま抱き上げて湯船の縁に座らせた。
「さあ、どうして欲しいんだ? 手でしごいてやればいいのか? ん?」
意地悪く見上げるように問いかければ、反抗する気力もない啓悟がおずおずと口を開いた。
「ぁ…口で、して欲し…ぃ」
「違うだろう? ちゃんとお願いしないと、好きなようにしたくなる」
もはや脅しともつかない口調で藤堂が言えば、啓悟の肩が僅かに揺れた。
「っ…お、れの…を、口で…ぃか…せて、飲んで…くださぃ…」
今にも消え入りそうな声で言葉を紡いだ啓悟の頭を、藤堂はくしゃりと撫でる。
「良く出来ました」
羞恥心から固くなった膝を割開き、藤堂は脚の間に身体を割り込ませると、そのまま啓悟の硬く勃ち上がった屹立を口に含んだ。
「うあっ、あっ、ひ…ぅ、ぅん…っ」
元より限界の近かった欲望を吸い上げられ、藤堂の舌で追い上げられて、啓悟の口からはとめどなく嬌声が零れ落ちる。
「ぃ…く、も…っ、いっちゃ…どうどぉ…、でちゃ…よぉ…」
泣くほど気持ちが良いのか、甘える様に藤堂の髪を掴んで啓悟が啜り泣く。
「んっ、あ…っ、あっ、ぃく…でちゃ…っう、んあっ、あ、あ…っあ、はっ…あああァァ---……ッ」
口の中にドロリとした啓悟の欲望を受け止めてなお、藤堂は屹立を吸い上げた。僅かな残滓すら残さず吐き出させられ、悲鳴にも似た嬌声が湯気を震わせる。
ようやく満足し身体を起こした藤堂の喉が艶かしく上下するのを、啓悟はぼんやりと眺めていた。
「どうした?」
「…キス…したぃ」
ぽつりと呟きながら腕を伸ばしてくる啓悟に、藤堂が喉の奥で笑う。
外気に晒されて冷え始めた身体を湯の中に引き込んで、藤堂は啓悟の唇を貪った。
「っふ、…ぁ、ん…んっ」
息を継ぐ度に艶やかな声が零れ落ちて、藤堂の耳朶を擽る。
「啓悟、そのまま自分で挿れてみろ」
「ん…」
藤堂に言われるがまま素直に腰を落として、啓悟は自ら熱の塊を迎え入れた。
「っは…ぁ、あ…んっ」
「は……、お前は本当に可愛いな」
「んっ、とうど…好き…好きぃ…っ」
熱棒をさらに深く飲み込んで、啓悟が縋りつく。
「……っ、お前…そんなに煽ってくれるなよ」
翌日、啓悟は目を覚ますと、もそもそと枕元に手を伸ばした。
指先で探り当てたスマートフォンで時間を確認すると、無機質な文字が既に午前の終わりを告げようとしている所だった。隣では未だに藤堂が静かな寝息を立てている。
いつも鋭く意志の強そうな瞳は、今は象牙色の目蓋に隠れていて、幾分雰囲気が若く見える。
啓悟はスマートフォンを再び枕元に放り出すと、しっかりと自分の肩に手を回したまま寝息をたてる藤堂の胸に潜り込む。
「起きたのか」
「……起きてない」
寝ているとばかり思っていた藤堂に問いかけられて、思わず不貞腐れたように啓悟が応えると、頬を寄せた胸板が小さく揺れた。
「笑ってんなバーカ…」
「どうしてそう、言う事がいちいち可愛くないんだろうな。行動は正直なのになぁ?」
ゆるりと腰に回していた腕に力が入り、ぐいっと啓悟の身体が引き寄せられた。
密着したまま脚を膝で割り開いて、主張を始めている啓悟の下肢を擦り上げる。
「っ…あ、…んっ」
「朝から元気だなぁ、啓悟。昨日あれだけ可愛がったのに、まだ足りないのか?」
「っは、…お前と違って…若い、からな…っ」
売り言葉に買い言葉で啓悟が返すと、藤堂はくつくつと喉の奥で笑い声を立てた。
「お前が思うより若いつもりなんだが…、今日はナシだ。お前に付き合っていたら、出掛ける時間がなくなる」
ちゅ…と小さな音をたてて額にキスを落とすと、藤堂はさっさと布団から抜け出してしまった。
取り残された啓悟が恨めしそうにその背中を睨んでいると、ふと藤堂が振り返る。
「ほら、起きろ」
啓悟が睨んでいることなど見通していたのだろう、苦笑を張り付かせて差し伸べられた藤堂の手を啓悟は素直に掴んだ。
そのまま引き上げられたかと思うと、あっという間に横抱きに抱き上げられる。
「ぉわ…っ」
急な浮遊感に思わず首にしがみ付く啓悟を満足そうに見下ろして、藤堂はすたすたと浴室へと向かった。丁寧に啓悟を床に立たせ、乱れた浴衣を脱がせていく。
甲斐甲斐しく世話を焼く藤堂の態度に少しだけ恥ずかしさを覚えつつ、それが嫌ではない啓悟は照れ隠しにボソリと呟いた。
「……子供じゃねんだぞ…」
「ん?」
ボソリと啓悟の口から漏れた台詞は、藤堂の耳には届かなかったようだ。不思議そうに聞き返されて、啓悟は慌てて顔を背ける。
「なんでもねぇよ…」
広めの脱衣所には、昨晩藤堂が頼んだものと思しき真新しい服がきちんと用意されていた。
「お前、朝起きたの?」
「ああ。ぐっすり寝ていたから起こさなかったがな」
「全然気付かなかった……」
唖然と呟く啓悟に、藤堂は苦笑を漏らした。
「お前は本当に警戒心がない」
「そんな事ねーよ」
お前の前でだけだ…と、そう続けそうになった言葉を啓悟は飲み込む。
藤堂は結局、啓悟の背中を流し、出掛ける支度までしっかり整えてやったのだった。
それから、丁寧に見送られ旅館を後にした二人は箱根を満喫し、都内に帰り着いたのは夜も随分と遅くなってからの事だった。
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