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◇ 第三話 多田誠 ◇
静かなBGMが流れる薄暗い店内。落ち着いているといえば聞こえはいいが、どこか辛気臭さを纏った店のカウンターに、多田誠は一人座って酒を飲んでいた。
本来であればこの時間は帰宅して娘と一緒に遊んでいる時間だが、今日は幼馴染の藤堂と毎月恒例の飲み会の日だった。
ちらりと腕に嵌めた時計を覗き見れば、約束の時間を数分過ぎていた。小さく舌打ちをし、グラスを煽る。
と、その時、多田の胸元でスマートフォンが振動した。画面に映し出された無機質な文字が、相手が藤堂であることを告げている。
「遅い」
通話ボタンを押すなりそう告げれば、微かな笑い声が聞こえてきた。
『悪いな、帰りがけに会長に捕まった』
「はぁー…、だったらもう少し早く連絡しろよな」
『すまんすまん、間に合うと思ったんだが…』
「で? 俺はあと何時間お前を待ってればいいんだ?」
『あと10分程度で着く。もう少し待ってくれ』
通話の切れたスマホをテーブルに置き、多田はカウンターのなかで静かにグラスを磨いている初老の男に声をかけた。
「マスター、おかわり」
「かしこまりました」
藤堂は予告通り、10分程で姿を現した。そこに急いでいた影などは微塵もなくて、この男のふてぶてしさが伺える。
「すまん、待たせた」
済まないと言いながらまったく悪びれた様子もなく店に入ってきた藤堂に、多田は溜め息で応えた。
静かな店内に他に客はなく、藤堂が多田の隣に腰を下ろすとスッとグラスが差し出された。かれこれ十年以上、毎月この店を訪れる藤堂と多田は、馴染みである。
「ありがとう」
藤堂の礼の言葉に、カウンターの男は小さく目礼で応えると、再びグラスを磨き始めてしまった。
「ところで学、お前最近啓悟さんに連絡してないだろう」
座るなり唐突に恋人の名を出され、藤堂はグラスを傾ける手を止めて隣を見る。
「なんだ急に」
「お前、本気で啓悟さんと付き合う気あるのか?」
「妙なことを聞くな、俺がいつ遊びだって言った?」
何ともなさそうに言いながら、藤堂は銜えた煙草に火を点した。ゆったりと紫煙を吐き出しながら口を開く。
「会社で何かあったのか」
「あの人、お前の事になると感情駄々漏れなんだよなぁ…」
「は?」
「拗ねてんじゃないのか? 鬼のような形相しちゃって、社員が可哀相なくらい」
思い出しながらくつくつと笑う多田に、藤堂は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ともあれ連絡くらいしてやれよ、クリスマスも会ってないだろう」
「誕生日に会ったんだし十分だろう」
「はぁー…お前は女心ってのをわかってないねぇ。それなのに無駄にモテるから困ったもんだよ、本当に」
どうしてこんな男がモテるのかと嘆く悪友を横目に、藤堂は酒を煽る。
正直なところ、付き合いの長い多田としては未だに藤堂が本気なのかどうか疑わしいところではあった。
幼いころから藤堂は男女問わずに人を惹きつける資質があったし、実際何をするにも中心にいるような男でもある。きっとそれは本人も自覚していて、上手く利用しているのも知っている。が、その弊害が己の身に降りかかるとなれば多田としても他人ごとではない。
「付き合うからにはメンテナンスもきっちりしろよ。仕事に支障出したら目も当てられないからな」
「子供じゃあるまいし」
「子供だから困るんだろーが。前にも言ったと思うがな、遊びならやめておけよ。あの人の本気は、お前が思うほど軽くないぞ」
面倒だと思うならすぐに別れろと、多田がそうはっきり告げれば、藤堂は少しだけ考えるような仕草でグラスを揺らした。
「まぁ、痛い目見る前にやめておけよ」
たかが恋人くらいの付き合いで縛られることなど到底受け入れられそうにない友人に警告すると、藤堂は曖昧に頷いただけだった。
多田の知る限り、啓悟の藤堂への想いは随分と前からのもので、それを本人が必死に隠していた事には気付いていた。
藤堂はといえば、元々男でも女でも来るもの拒まずなタイプだったし、社会人になってからはあまり派手に遊んでいる様子はなかったが、あくまでもそれは表向きであって、裏では上手く遊んでいるだろうことは容易に想像できた事でもある。そんな男が一人に縛られるなど到底無理な話だろうと、付き合いの長い多田は思うのだ。啓悟の様子を見ていると、痛々しくさえある。
結局、その日藤堂はあまり口を開く事はなく、啓悟との事に関しても答えを多田に告げることもないまま、二人は別れたのだった。
藤堂との恒例の飲み会の翌日、年末ということもあって、多田は書類の整理と啓悟のスケジュール管理に追われていた。ドアを一枚隔てた向こうには、今日も不機嫌さを隠そうともしない社長がこれまた業務に忙殺されている。
どうやら未だ連絡の一つもしていないらしい幼馴染に内心で溜め息をついていると、内線が鳴った。
「はい、多田」
『あの…藤堂様という方がお見えになられてまして…、社長に会いたいと…。アポは取っていらっしゃらないようなのですけど…、如何いたしましょうか』
困ったような声で告げられた内容に、思わず多田は吹き出しそうになる。
「わかりました、私が行きます。そのまま待たせておいてください」
『かしこまりました』
まさか会社に乗り込んでくるとは思ってもいなかった。すぐさまエントランスへ向かうと、昨夜見たばかりの悪友の姿がある。仕立ての良いスーツを纏った姿は、さすがに経営者といったところだろうか。
「よう」
エントランスに設えられた応接用のソファセットのひとつ。そこに座った藤堂が、多田の姿を認めて軽く手を上げた。
「お前な…。何がよう、だよ。というか、何しに来たんだ」
「啓悟に会いに来たと、聞かなかったか?」
「アポなしで来るとか有り得んだろうが」
呆れたように多田が呟くと、藤堂は悪びれもせずサプライズだなどと言って笑う。
不安そうにこちらのやり取りを見ている受付の社員に知り合いであることを告げ、コーヒーを二つ頼むと、藤堂の向かいへと多田は腰を下ろした。
「てかお前、仕事はどうしたんだ」
「昨日で終わっているが?」
シレッと藤堂に言われてしまえば、多田に返す言葉はない。
「だからって急に会社に乗り込んでくるなよ」
「会社でしか出来ないこともあるだろう?」
にやりとシニカルな笑みを浮かべる悪友に言葉を失う。こちらは仕事中だということを忘れてはいないだろうか。
「…お前なぁ…」
盛大に文句を言ってやりたいところだったが、ちょうど社員がコーヒーを運んできて多田は渋々口を閉じた。
「ありがとう」
苦虫を噛み潰したような多田とは対照的に、爽やかな笑みを浮かべて藤堂が礼を言えば、受付嬢の頬がほのかに朱に染まる。
天然というよりは計算されているであろう藤堂の態度は、これまでの付き合いでよく知っている。
「ところで、年末の予定はどうなってる?」
「啓悟さんのか?」
「……お前の予定を聞いてどうする」
心底嫌そうに眉間に皴を寄せて言われてしまい、思わず苦笑が漏れる。
「一応、今日までの予定だが…、明日は会長に呼び出されてるみたいだな」
仕事納めは今日だが、明日は送迎を頼まれている。
家族仲が悪いわけではないが、啓悟はあまり実家に顔を出したがらない。呼び出される度に見合い写真の山と対峙させられていれば、啓悟でなくとも嫌になるとは思うが…。
「また見合いの話か?」
「だろうな」
以前、多田は啓悟にカミングアウトしてしまえと進言したことがあるが、その相手が友人となると微妙な気持ちではある。
それでなくとも藤堂は会長の下で働いているし、立場が悪くならないとも限らない。多田としても、さすがに友人の立場を悪くしようとまでは思えなかった。
「なぁ、学」
「なんだ、改まって」
「もし、もし…だ、啓悟さんが両親にカミングアウトするって言ったら、お前、どうするつもりなんだ?」
柄にもないとは思うが藤堂の目を見ることが出来ず、多田はコーヒーを見つめて小さく呟いた。が、返ってきた言葉はあっさりとしたもので…。
「まぁ、言いたいというなら断る理由もないだろうな」
事も無げに言い放たれて、多田は藤堂の顔をまじまじと見つめた。
「くくっ、そんなに驚くこともないだろう?」
「お前、自分の立場わかってんのか?」
「勿論わかってるさ」
「首が飛びかねないってのに、随分余裕なんだな」
驚きを通り越すと人は呆れるものだと言うが、それは本当なのかもしれない。そう、多田は思った。
だが、あまりにも余裕がある藤堂の態度が、多田は不思議でならない。この友人の事だ、今、職を失ったとして起業する気になればいくらでも出来そうなものではあるが…。
「何か考えでもあるのか?」
「随分と俺の身の上を心配してくれるんだな」
「阿呆、茶化してないで答えろよ」
「まぁ、考えたところで判断するのは会長だろう。が、覚悟はしてるさ」
「辞めるのか?」
「辞めろと言われれば辞めるしかないだろうが、会長の事だ、それはないだろうな」
「お前、何考えてる?」
「だから言ったろう。覚悟はしてるさ、…飼い殺される覚悟をな」
藤堂はそう言ってにやりと笑った。
「どちらにせよ悠悟さんが成人するまでの繋ぎだ、多少待遇が悪くなったところで数年くらい我慢するさ。啓悟を貰う代償にしちゃ安いものだろう」
「……本気かよ」
「遊びなら別れろなど言っておいて、本気となると驚くんだな」
くつくつと喉の奥で笑う藤堂に、多田は溜め息で応えた。
「ま、腹が据わってんならいいや、俺が口出す事じゃない」
「十分出しただろうが」
「そりゃ心配くらいするだろう」
腐れ縁とはいえ、長年付き合いのある友人の事である。しかも今後の人生までを左右してしまいかねない案件でもある。気にするなという方が無理な話だ。
「まぁ、いざとなったら啓悟の下で働くのも悪くない」
冗談めかして言っているが、そうなったら啓悟は無条件で藤堂を雇い入れるだろう。
私情を抜きにしても、藤堂の経営手腕は啓悟の父親も認めるところだ。即戦力として会社にプラスになることは間違いない。
「お前なぁ…」
「ははっ、そうなれば社長も上機嫌な上に戦力増強だ。一石二鳥だな」
「勘弁してくれ。俺の心労が倍増する」
馬鹿なことを言うなと、多田は首を振った。
「この年になってまでお前と一緒なんて御免だぞ俺は」
社長室のドアをノックすれば、中から返事が聞こえてきた。ドアを開けても、窓を背後に設えられた執務机に向っている啓悟は顔を上げようともしない。
「社長、少々よろしいでしょうか?」
「なんだ」
「社長に会いたいという方がいらっしゃ……」
「断る」
多田の言葉を遮って、啓悟が即答する。
いつもなら相手を聞いてから断る啓悟だが、このところ不機嫌なせいであまり人には会いたがらない。
「そうおっしゃらずに会って頂けませんか…」
多田が困ったように告げると、啓悟の動きがぴたりと止まった。ゆっくりと顔を上げるその表情は、明らかに不機嫌さが滲み出ている。
視線の先に苦笑を漏らす多田と、にやにやと人を喰ったような笑みを浮かべる藤堂の姿を認め、啓悟の口から間の抜けた声が漏れた。
「は?」
「すいません。どうしてもと言うので通しました」
「せめて相手を確かめてから断れよ啓悟」
アポなしでの来訪だというにも関わらず偉そうに言って、藤堂はすたすたと室内に足を踏み入れた。応接用に据えられているソファに断りもなく腰掛けると、長い脚を組んで啓悟を見やる。
「気にせず仕事してくれていいぞ、ここで大人しく待たせてもらう」
「はぁ? てか何しに来たんだよ」
「顔を見に来ただけだが? 最近恋人から連絡がなくて拗ねてるんで何とかしろと誠に言われたんでな」
シレッと言い放たれた藤堂の台詞に、啓悟が多田を見る。
「多田ぁー…」
地を這うような低音で名前を呼ばれ、多田は苦笑する。
「だからといってアポなしで会社に来いとは一言も言ってないけどな」
「ちょうど休みに入ったからな、行動は早い方がいいだろう?」
「もういい、わかった。わかったからお前ら二人とも出てけ。俺は仕事する」
シッシッと犬でも追い払うような仕草で啓悟が手を振ると、藤堂が立ち上がった。が、大人しく言う事を聞くはずもなく。藤堂は書類の積み上げられた執務机を回り込むと、椅子の肘掛けに座るようにして啓悟の肩にするりと腕を回す。
「せっかく会いに来たんだ、そう邪険にすることもないだろう?」
耳元に低く吹き込まれ、啓悟の体が硬直した。
「それじゃ、俺は仕事があるから戻るぞ」
ひらひらと手を振りながら、静止する間もなく多田は出て行ってしまった。
どうもこの二人に嵌められてる気がしなくもない啓悟は、胡乱気な目で藤堂を見上げた。
「なんだかんだ言い合ってる割に、お前達仲良いよな…」
「ん? 嫉妬か?」
「そうじゃねぇよ」
啓悟は盛大な溜め息を吐き出すと、藤堂の身体を押し返した。
「いいからちょっと離れろって…」
「好きな奴が目の前にいるのに大人しくしてると思うか?」
「こっちは仕事中だっつーの」
さすがに仕事の邪魔をするつもりはないのか、啓悟が再び押し返すと藤堂はすんなりと肩に回した腕を解いた。
「仕方がない。大人しく待つとするか…」
そう言って再びソファーに戻る藤堂を視線で追って、啓悟は溜め息を吐いた。
「まったく連絡もないと思ったら急に会社に来るとか、何考えてんだよ…」
手元の書類をめくりつつ、不満を漏らす。
「悪かったな」
「なんだよ急に」
「連絡してやらなくて」
「別に、忙しいのは知ってるし」
本人は平然としているつもりなのだろうが、少しだけ上ずった声に強がりが伺えて、藤堂は小さく苦笑を漏らした。
「柄にもなく自重などするんじゃなかったな」
「はぁ?」
どういういう意味だと啓悟が藤堂に問い詰めようとしたその時、ドアが荒々しくノックされた。返事を返す間もなく開け放たれたドアの前には、多田が立っていた。
「どうした誠、そんなに急いで」
暢気に友人を見やる藤堂の声に、多田はきつい視線を一瞬だけ投げて啓悟に移す。
「征悟さんがいらっしゃるそうです」
「はぁ?」
「もうエントランスにお着きになってるとのことで…」
「で? 何でそんなに慌ててんだよ」
不思議そうに問いかける啓悟とは対照的に、多田の慌てた理由をなんとなく察した藤堂が笑い声をあげた。
「ははっ、まさか俺たちが不埒な真似でもしてたら大変だってんで慌てて入ってきたんじゃないだろうな」
図星を指されて黙り込んだ多田の様子に、啓悟もようやく理解したようだった。
「はぁー…さすがに仕事中にそれはない…ってか、そんなに信用してねぇのかよ」
多田の慌てように呆れたような声を上げる二人だが、正直多田からしてみればなんの説得力もないことは先日の車中での一件で明白である。
「他人が運転する車で致しちゃうような奴らに言われたくない」
「っぐ」
笑われた仕返しに意地悪く言ってやれば、啓悟が言葉に詰まる。その横で、もう一人の当事者は平然とした顔をしていた。
「覗き見とは悪趣味だなぁ誠」
「馬鹿か」
多田が吐き捨てると同時に、社長室の手前、多田の執務室のドアが何の前触れもなく開かれた。
「失礼するよ」
落ち着いた柔らかな声に振り向いた三人の視線が、それぞれ声の主を捉える。
「やあ、啓悟。元気かい?」
ひらひらと笑顔で手を上げながら入ってくるその人こそ、篠宮征悟(しのみやせいご)。啓悟の父親であり、藤堂の働く篠宮コーポレーションの会長である。
身長はそう高くない。というよりも、男にしては低いと言っても過言ではないだろう。五十五歳という年齢のわりに若く見える征悟は、どこからどう見ても三十代にしか見えない。
仕事の付き合いか何かの帰りだろうか、ダークグレーのスーツを纏っているものの、その首元にネクタイはなかった。
「元気かいって…せめて連絡してから来いよ親父」
「ははっ、ちょうど近くを通ったものでねぇ。そろそろ仕事も終わる頃だろうと思って」
「残念ながらまだ仕事中だよ」
「その割に賑やかじゃないか」
にこやかに言いながら、征悟は藤堂の隣にちょこんと腰を落ち着ける。
「やあ、藤堂君。意外なところで会うね」
「そうですね」
「藤堂君といい多田君といい、啓悟には優秀な男を惹きつける何かがあるのかな?」
「俺たちが優秀かどうかはさて置き、啓悟さんには魅力がありますね」
「うーん…。藤堂君が魅力なんて言うと、ちょっとドキッとしてしまうねぇ」
冗談なのか本気なのかわかりかねる口調で言いながら、征悟が藤堂の顔を覗き込む。
「どうしたらそんな色気が出るんだろう?」
「ははっ、色気なんてありませんよ」
覗き込む征悟の視線を真っ向から受け止めて藤堂が笑う。
「そうかなぁ。藤堂君には男の魅力があるよ、ねぇ啓悟」
「俺に振るなよ」
「つれないねぇ…」
心底悲しそうに呟く征悟の前に、多田がコーヒーを差し出す。
「あぁ、ありがとう」
にっこりと見上げられて思わず目が合ってしまい、多田はぎこちない笑みを浮かべた。
多田は、実はあまり征悟が得意ではない。普段からずっとこんな調子で笑っているが、どうにも何を考えているのかわからないフシがあるからだ。
「そういえば多田君と藤堂君は昔からの知り合いなんだよね?」
「そう…ですね」
「藤堂君は昔から男前だったんだろう?」
どうにも妙な方向に話が行ってしまっているな…などと思いつつ、多田は曖昧に頷いた。が、次の征悟の発言で、その場にいる三人は絶句する事となった。
「どうかな藤堂君、そろそろ再婚なんか考えたりしないかい?」
室内に沈黙が下りる。
だが、相変わらずにこにこと笑みを浮かべた征悟は気にした様子もなく話を続けた。
「奥さんが亡くなってもう随分と経つだろう? そろそろ再婚してもいいと思うんだよねぇ…。実は僕の知り合いのお嬢さんが、藤堂君をいたく気に入ってしまってねぇ…」
「ちょっ、ストップ!!」
征悟の話に割って入ったのは、藤堂本人ではなく啓悟だった。
「何言ってんだよ親父! 藤堂は……」
「啓悟さん」
「っ…」
思わず、といった態で身を乗り出す啓悟を、藤堂の静かな声が静止する。
「会長、申し訳ありませんが再婚するつもりはないんです」
「他にもう大事な人でもいるのかな?」
征悟の問いかけに藤堂は意味ありげな笑みを浮かべると、きっぱりとした口調で言い放った。
「はい。啓悟さんとお付き合いさせて頂いてるので他の方と付き合うつもりはありません」
藤堂の台詞に、征悟と啓悟が凍り付く中、多田だけが小さく息を吐いた。付き合いが長いだけあって、こういう時の藤堂がどういう行動に出るかはある程度予測できる。
やがて、藤堂の顔を驚いた顔で見つめていた征悟が口を開く。
「うーん…、これは困ったなぁ。一応聞いておくけど、自分が何を言ってるか理解してる? 藤堂君」
「勿論です」
問いかけにも即答する藤堂に、征悟はぽりぽりと頭を掻いた。その表情には、辛うじて笑みがこびりついている。
「あまり大きな声を出すのは得意じゃないんだけどねぇ…、藤堂君」
「はい」
ふと、征悟の表情が変わった。
「冗談もいい加減にしなさい!!」
大声というよりも、怒声である。征悟のこんな声を、啓悟でさえ聞いた事はなかった。
室内の空気を振るわせる鋭い声に征悟の本気さを感じ取って、啓悟と多田は思わず真顔で背筋を伸ばした。その中にあって、怒声を向けられた藤堂だけが平然としている。
「俺が冗談でこんな馬鹿な話をすると思いますか?」
「本気だというならなおの事、親として聞き逃すわけにはいかない」
「まぁ、そうでしょうね。ですが、申し訳ありませんが本気な上に引く気もないんです。会長がお怒りになるのも重々承知しています。その上で今一度言わせてもらいます。啓悟さんを俺にください」
怯むことも、躊躇う事もなく、藤堂が征悟の目を射る。
どれくらいそうして睨み合っていただろうか。どちらも逸らす気のない睨み合いに終止符を打ったのは、当事者である啓悟だった。
「はぁー…、あのさぁ、勘弁してくれよ。藤堂、お前、さすがに唐突過ぎ」
持っていたペンで藤堂を指さしながら、呆れたように言い放つ。と、啓悟は藤堂の隣に座る征悟に視線を移した。
「それと親父、藤堂が言ってることは事実で、俺も藤堂と別れるつもりはないから。驚かせたのは悪いけど、反対されてもそれは俺も譲れないんだわ」
少しだけ困ったような笑みを浮かべ、ペン尻で耳の裏をカリカリと掻きながら言う啓悟の姿は、どこか照れているようでもある。
そんな啓悟の姿に、唐突に征悟がテーブルに突っ伏した。ガシャンとコーヒーカップが派手な音を立てる。
「親父!?」
慌てて駆け寄る啓悟の耳に、だがしかし聞こえてきたのは悔しそうな征悟の声で…。
「うーん…、さすがに今回は誤魔化すと思ったんだけどなぁ…」
「はぁ?」
意味の分からない台詞に啓悟が首を捻ると、征悟がガバッと上体を起こす。
「うわっ」
「ねぇ啓悟、こういう時は少しは親に気を遣おうとか思わないかい!? 怒られたら少し考えるものだろう!?」
征悟に両腕を掴まれ、がしがしと体を揺すられて啓悟は戸惑う。
「はぁー? 意味わかんねぇし」
言いながら藤堂に縋るような視線を向ければ、藤堂は笑いを噛み殺していた。
「だから言ったじゃないですか、啓悟さんは躊躇しないって。俺の勝ちですね」
どうやら啓悟の知らぬところで話が進んでいるらしいことは、藤堂と征悟のやり取りで理解できた。
「親に猛反対されたらさすがに躊躇するものだろう!?」
「まぁ、普通はそうかもしれませんが…、啓悟さんですから」
くつくつと喉の奥で笑う藤堂の顔には、だがしかし安堵の色が浮かんでいた。
悔しそうなまま征悟が帰った後、啓悟は残りの仕事を片付けるからと言って藤堂と多田を追い出した。
追い出された二人は、多田の執務室でコーヒーを飲んでいる。
「で、結局? 征悟さんは全部知ってたって訳か」
「俺が話すまで確証はなかったろうが、薄々感づいてはいたんじゃないか。見合い写真を見ようともしないって愚痴はよく聞いてたからな」
その上女の影の一つもなければ、そりゃ疑いもするだろうと藤堂が笑う。
「しかし、あの人があんな怒鳴るとは…」
「ははっ、お前と啓悟の顔は見ものだったな」
普段温厚な人間の方が、怒ると怖いとはよく聞く話だが、まさにその通りだと多田は思った。あれが演技だと知った今でさえ、信じられないくらいだ。
「本当に演技だったのか?」
「さぁな」
「さぁなって、お前…」
当事者にもかかわらず涼しい顔をしている藤堂には呆れる。
「例え本気だったとしても、何も変わらないんだ。どちらでも構わんさ」
「お前、そういうとこ本当に図太いよな」
昔から肝が据わっている男である。例え賭けに負けていたとしても、この友人はどうにかしてしまうのだろうと思う。
「まぁ、どちらにせよあれは会長ひとりのただの悪足掻きだしな、例え啓悟が誤魔化したところで痛くも痒くもない」
「どういう事だよ」
「奥さんも悠悟さんも知ってるって事さ」
根回しなどとうに済んでいると、人の悪そうな笑みを浮かべる藤堂に、今度こそ多田は盛大な溜め息を吐いた。
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