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◇ 第四話 篠宮啓悟 ◇
年末のちょっとした騒動の後、無事年も明けたある日。篠宮啓悟は自らハンドルを握っていた。年始という時期もあって、渋滞のない道を快調にドライブして向かっているのは、恋人のマンションだ。
都内の一等地に建てられたタワーマンションの地下駐車場に車を滑り込ませると、来客用に設けられたスペースに車を停める。
ドアを開けて降り立った啓悟の服装は、パーカーにジーンズというラフなものだった。
キーケースと入れ替えに取り出した財布の中から一枚のカードキーを抜き出す。カードキーは、もちろん恋人の藤堂学に渡されたものだ。
地下駐車場からは、そのままエレベーターでフロアに上がれる仕様になっていた。
さして待たずに到着したエレベーターの扉が開くと、一人の女が降りてきた。高級そうな毛皮のコート。濃いめの化粧を施してはいるが、化粧を落としてもかなり美人だろうことが見て取れる。擦れ違いざまにふわりと香水が香った。
入れ替わるようにエレベーターに乗り込んだ啓悟が何の気なしに女の後ろ姿を目で追っていると、不意に足を止めた女が振り向く。扉の閉まる直前、ばっちりと目が合った。
このマンションの住人だろうか? などと思いはしたものの、別段興味もない啓悟は、藤堂の部屋があるフロアに到着すると、そのまま玄関へと足を踏み入れた。
「お邪魔しまー…ん?」
ふわりと玄関に香る匂いに、啓悟は動きを止めた。
「……この匂いって…」
エレベーターで目が合った女の顔が脳裏をよぎる。と同時に、嫌な気持ちが不意に込み上げた。
玄関からいつまでも入ってこない啓悟を訝しんだのか、藤堂が廊下から顔を見せた。
「どうした?」
「女の人来てた?」
我ながら直球だとは思いつつ、それ以外に上手く聞き出せる自信もない。
「ん、ああ…」
どことなく歯切れの悪い藤堂の返事に、啓悟は胸の内にむくむくと黒いものが湧き上がるのを感じた。嫌な気持ちが一気に膨れ上がる。
嫉妬。そんな言葉が脳内を過ぎった瞬間、啓悟はくるりと向きを変えて駆け出していた。
「え、おい! 待て…っ」
後ろから焦ったような藤堂の声が聞こえたが、啓悟はそのままエレベーターへ向かって走り出す。
幸い、先ほど啓悟が到着したまま止まっていたらしいエレベーターの扉はすぐに開いた。乗り込んで『閉』と書かれたボタンを押した瞬間、部屋のドアが開き、藤堂が走り出てくる。
―――逃げたところでどうなるもんでもないのにな。
心の中で冷静に呟いてはいても、啓悟の指先はボタンを何度も押し続けた。ゆっくりと閉まり始める扉の間から、藤堂の声が聞こえる。
「待てって…言ってる…だろうがっ!」
扉で藤堂の顔が見えなくなって、もうすぐ閉まるとほっと胸をなでおろした瞬間だった。ガツンッと、派手な音を立てて扉が止まる。
「っ……!!」
明らかに扉に挟まれた指先だけが見えて、啓悟は言葉を失った。
実際はそう長い時間ではなかったけれど、その時の啓悟には数分にも思える時間の後で、扉がゆっくりと開く。
「痛ってぇな…くそっ」
しっかりと痕のついた指先を見ながら藤堂は吐き捨てると、そのままエレベーターに乗り込んできた。
思わず、啓悟が後退る。だが、狭いエレベーターの中ではすぐに背中が壁にぶつかった。行き場を無くして俯くしかない啓悟のすぐそばで、バンッと大きな音が響く。
「ッ……」
顔のすぐ横に手をついた藤堂が、影を作る。
「どうして逃げた?」
低く掠れた声で囁かれて、啓悟の肩がぴくりと震える。
藤堂の背後で扉が閉まった。
「答えろよ啓悟」
―――嫉妬だなんて、言えるわけない…。
行き先を指定されず、ただ止まっている密室の中で時間だけが過ぎる。だらりと垂らされた藤堂の左手の赤い痕が生々しくて、視線が釘付けになる。
まるで肉食獣に追い詰められたかのように、ジリジリと焦燥感が募っていく。意識せず足が震え、啓悟はずるずるとその場にしゃがみこんだ。
自分でもどうして逃げてしまったのかわからない。ただ、藤堂の顔が見れなかった。今も。
「…っ、…ぅ」
こんな気持ちは初めてで、気が付くと啓悟は泣いていた。
そんな啓悟の様子に、藤堂が大きく息を吐く。
「帰るぞ」
困ったような声が降ってきて啓悟は辛うじて小さく頷いた。
くしゃりと、大きな手が髪を撫でる。
「立てるか?」
目の前に差し出された手に痛々しい痕を認めて、握り返そうとした啓悟は思わず手を引っ込めた。
「ん? ……あぁ、すまん」
啓悟の不可解な行動の意味を理解したのか、藤堂はそう言って無事な方の手を差し出した。
おずおずと手を差し出せば、力強く腕を取られる。
ぐい…と腕を引き上げられてなお、顔を上げようとしない啓悟を気にした様子もなく藤堂はエレベーターを降りた。
再び足を踏み入れた玄関に残り香はすでになくて、啓悟はほっと小さな息を吐く。どうしてあんな行動をしてしまったのか、自分でも訳が分からないけれど、とにかくその場に居たくなかった。
―――藤堂に怪我までさせて…、馬鹿みてぇ…。
自分の軽率な行動に嫌気がさす。
リビングのソファに啓悟を座らせて、藤堂はようやく手を放した。
「あー…その、なんだ…、気にさせるような言い方したのは悪かったが、だからって逃げる事もないだろう?」
がしがしと頭を掻きながら藤堂に言われ、啓悟はどれだけ今、この人を困らせているんだろうと思う。誰? と、そう聞ければよかっただけなのに、どうしても聞けなかった。
「……ごめん…」
ぽつりと呟けば、藤堂の大きな手が頭に乗せられる。
「気にさせて悪かったな」
ぽんぽんと軽く頭を撫でられると、啓悟の顔がくしゃりと歪んだ。ぱたぱたと膝の上に雫が落ちる。
「…っふ、……っぅ」
「参ったな…」
「…っごめ…」
「彼女は義理の姉だ」
藤堂が昔結婚していて、奥さんとは死別したという話は啓悟も知っていた。
「嫁さんが亡くなった時に世話になったのと、再婚じゃないが、一応報告をと思ってな…。本当は俺の方から出向くと言ったんだが…」
渋い顔をして藤堂が言うのには訳があった。
死別後まったく再婚の素振りがなかったものの、報告に行った際に相手が男だとバレたのだという。
「何というか、まぁ、個性的な人でな…」
どうしてもと押し切られて、啓悟が訪れる日を教えたのだという。
―――だから振り向いたのか…。
それにしても、と啓悟は思う。藤堂を言いくるめる程に個性的な女性とは、いったいどんな人なんだろうか…。
「まさかお前に逃げられるとは思ってなかったけどな」
「ぅ…」
「まったく…、逃げるわ泣き出すわ、どうしようかと思っただろうが」
「…だって……、なんか歯切れ悪いし…、隠し事でもしてるのかと思って…」
ぼそぼそと言い訳を零せば、藤堂が目の前にしゃがみ込んできて顔を覗かれた。顔を逸らす余裕もなく両手で頬を挟まれる。
「…っ」
「酷い顔だな」
恥ずかしさに啓悟が視線を彷徨わせていると、藤堂が口の端を持ち上げた。
藤堂のマンションの浴室は広く浴槽も相応に広かったが、啓悟は後ろから抱えられるように湯船に浸かっていた。浴槽の縁に置かれた藤堂の手がふと目に入り、啓悟は思わず手を伸ばす。
「ん?」
そっと藤堂の左手を包み込み持ち上げると啓悟は赤い傷痕に軽くキスをする。出血した様子はないが、赤い傷痕はそのうち変色して痛々しさを増すだろう。
「痛そう…」
言いながら指先に口付けを落とす啓悟に、藤堂の欲望が一気に湧き上がる。
「っふ…ん…ぅえ?」
藤堂の指先が口の中に入り込んで、啓悟の舌を摘み上げた。
「煽ったお前が悪い」
耳元で低く囁く声が濡れている。密着した腰に固いものが当たって思わず腰を捩ると、グイッと引き寄せられた。腰から滑り降りた手で下肢を握り込まれ、ゆるりと扱きあげられる。
「ふぅ…ッ、ぇぅ…ッ」
閉じることを許されない口許から唾液が滴り落ちて、水面に小さな波紋を作る。
さして時間もかからずに啓悟のそれは硬度を増し、あっという間に主張を始めた。水の中だというのにぬるりと粘着質な感触が伝わってきて、藤堂の手を滑らせる。口腔の粘膜と下肢を同時に責められて、全身に甘い痺れが走った。
啓悟が身じろぐ度にぱしゃぱしゃと水音が響く。
「ぅく…んっ、ぁ」
とめどなく言葉にならない喘ぎが漏れて、浴室に響いた。
硬い屹立を藤堂の指が滑る度に腰が揺れた。ごりごりと腰のあたりに藤堂の欲望が当たって、啓悟の蕾が物欲しそうにひくつく。
―――っ、欲しい…、藤堂の……。
一度も後ろを触られていないというのに、身体が熱を欲しがる。太くて固いもので犯して欲しい。
ひとたび溢れ出した欲望は止めることなどできなくて、啓悟は腰を揺らめかせた。
「欲しいのか?」
「っ…んっ、……ほ…ひぃ…」
恥ずかしくて、気持ちよくて、涙が出る。
浮力でさほど力を入れなくても動くことが出来た。啓悟はゆるゆると腰を上げると、自らの秘部に熱い肉棒をあてがった。ゆっくりと腰を沈めていく。
さすがに慣らさないままで飲み込むのは無理があったかと思いはするものの、高ぶった欲望には勝てなかった。みしみしと身体がきしむような気がする。それでも、啓悟は動きを止めなかった。
「んっは…ッ、あ、あ、……っく」
痛いのに気持ちよくて、頭が混乱する。啓悟は無意識に藤堂の指を噛み締めた。
「ッ……」
背後で藤堂が息を詰めるが、啓悟にそれを構う余裕はない。
幾度となく迎え入れた熱棒が腹を満たして、快感が背筋を這いあがる。侵食される感覚が、たまらなく気持ちいい。
自重で最奥まで藤堂を飲み込んだ瞬間、啓悟は多幸感と共に絶頂に達した。
「ァ―――…ッ、―――…っっ!」
声にならない悲鳴が浴室に響く。背を仰け反らせた反動でばしゃりと水面が波打った。どろりと白濁が湯を汚す。そのまま気を失ってしまいそうなほどの快感に、啓悟の眦からぼろぼろと涙が落ちた。
「っふ、…っく、ぁ、…はっ」
どうにか快感をやり過ごし、啓悟の身体が弛緩していく。藤堂の厚い胸板がしっかりと啓悟の身体を抱きとめてくれた。
「大丈夫か?」
額に張り付いた髪を藤堂の大きな手が掻き上げる。
「ん……」
振り向いて、キスを強請る。互いに貪るように舌を絡ませて、熱を飲み込んだままの後腔がひくりと震えた。
「んっふ……、はっ、あ、あぁ……」
熱が、欲が、再燃する。
―――足りない…。
じくじくと疼く肉壁が刺激を求めて蠢き出す。
「やらしいな」
「ぅ、だって…、も…」
身体が欲しがるのだから仕方がない。いつからこんな風になってしまったのかなんて、考えるだけ無駄なのだ。
「と…どぅ…、だけ……」
自分の身体がこんな風になるのはお前だけだと、そう伝えたくて。
「はっ、それは……、反則だろう?」
瞬間、腰を掴まれて下から突き上げられた。
「んんッ、……あ、あ…ッ」
強烈な刺激が裡を抉って、まるで頭まで串刺しにされたような錯覚に陥る。
―――壊れ……る。
そう思う心とは反対に啓悟のナカは飲み込んだ熱棒を締め付けた。
ずるりと引き抜かれた肉棒を、再び一気に最奥まで捩じ込まれる。ひどく感じる部分をごりごりと容赦なく抉られて、意識が飛ぶ。
「あー…、ぁ、あっ、…っあ…」
突き込まれる度に敏感な部分を擦り上げられて、吐き出すのを止められない。
波打つ水面に揺られて自身の吐き出した体液に溺れているような錯覚を覚えた。
快楽に飲み込まれる意識の中で、最奥に吐き出された藤堂の熱を感じる。ただそれだけのことで啓悟は幸せに包まれた。
気が付くと啓悟は広いベッドにひとり寝かされていた。未だふわふわと水中を漂っているような感覚が抜けきらず、ぼんやりと天井を見つめる。
寝返りを打とうかとも思ったが、身に覚えのあり過ぎるぎしりと身体が軋む感覚に脱力した。
―――あーもう…、動くのだりぃー…。
気持ちよさに感けて事後の事を考えずイタしてしまうのは如何なものかと、自分でも思う。そう、毎回思いはするものの、その時になれば後の事など考える余裕なんてなくて…。
動くことを放棄してぼんやりしているとドアの開く気配がして、藤堂の声が聞こえてきた。
「起きたか」
タイミングの良さに隠しカメラでも仕掛けられているのではないかと疑いたくなる。
「ん…」
「大丈夫か?」
「怠い」
身も蓋もない啓悟の返事に藤堂は苦笑すると、ベッドに腰掛けた。その手に白いものを発見して少しだけ啓悟の心が痛む。
「藤堂こそ大丈夫なの」
「ん? あぁ、これか。大した事はない」
包帯を巻いた手を軽く振って、藤堂が笑う。見栄えが悪いから隠しているだけだと本人は言うが、きっと痛々しい色をしていることだろう。
「ごめん」
「お前のせいじゃない、気にするな」
そう言って、藤堂は無事な方の手で啓悟の頭を撫でた。
「それに、お前に嫉妬されるのも悪くない」
言いながら藤堂は啓悟の額に軽い口付けを落とす。
悪くないなどと言われてしまっては、啓悟にはそれ以上言えることなどなかった。動けない代わりに、両手で掛布を引き上げる。
「照れてるのか?」
「うっせーよ」
くすくすと笑うものの、どうやら藤堂は掛布を剥ぐ気はないようだ。
「本当に…、お前は可愛いな」
代わりにそんな言葉が聞こえてきて、啓悟はますます顔が出せなくなる。
「お前…、なんでそういう事平然と言えんだよ」
「好きな奴の前でくらい、素直になっておこうかと思ってな」
「っ―――…」
これ以上話していると、どこまでも恥ずかしい思いをしそうで啓悟は黙る。
「どうした?」
「っ、なんでもねぇよ」
「素直じゃないな」
笑いを含んだ声が聞こえたかと思うと、するりと布団の中に藤堂の手が入り込んできた。
「身体は素直なのになあ?」
脇腹のあたりを撫でられて、思わず腰が跳ねる。
「ちょっ、やめろよっ」
「くくっ、お前、本当に敏感だな」
「お前の触り方がいちいちエロいんだっつーの」
「褒めてるのか?」
「ちっげーよバカ」
撫でまわそうとする藤堂と、それを阻止しようとする啓悟の攻防が始まる。
「触んなって」
「恋人に触れるなとはまた酷い言い草だな」
「っ、触るなら普通に触れって言ってんだよっ」
藤堂の腕をがっちりと掴んで啓悟が叫ぶ。
「普通に触ってるのに感じてるのはお前だろう?」
「撫でんなバカ」
「なら普通に抱き締めてやるからちょっと放せ」
「おまっ、そんなこと言われて放したら抱き締めて欲しいみたいじゃねーかよ!」
本当に、藤堂のこういうところが手に負えないと啓悟は思う。素直になろうと思っても、どうにも恥ずかしくなるように仕向けられている気がしてならない。
「抱き締めてほしくないのか?」
「っ……それ、ずりぃだろ…」
思わず脱力してしまう啓悟の身体を、藤堂が抱き締める。
「最初からそうして大人しくしていろ」
満足げに囁かれて、返す言葉を失う。
何を話すでもなく、ただ藤堂の腕に包まれる。じんわりと心が温かくなって、啓悟も自然と藤堂を抱き締め返していた。
翌日、啓悟がハンドルを握る車は穏やかな日差しの中、とある墓地に向かっていた。藤堂の死別した奥さんに報告をする為だ。
一緒に来てくれないか、と、藤堂に言われた時は戸惑ったが、結局啓悟は頷いていた。
啓悟の秘書であり藤堂の友人でもある多田誠の情報によれば、結構な遊び人だと聞いていただけに、意外な一面を知る。
「せっかくの休日に付き合わせて悪いな」
「別に、俺も関係してるし…。てか、案外一途なんだな」
「案外?」
「結構遊んでるって、多田が言ってた」
ちらりと伺うような視線を投げかければ、藤堂は気にした様子もなく窓の外を眺めている。
「亡くなった藤堂の奥さんってどんな人?」
藤堂が死別していることは啓悟も知っていた。だが、その人となりまでは知らない。顔や名前すらも。
藤堂のマンションにも写真などは一枚もなくて、これまで話題にしたこともなかった。というよりも、意識的にそういう話をお互いに避けてきたように思う。
なかなか返ってこない返事に、何か聞いてはいけないことを聞いてしまったかと隣を見れば、どことなく遠くを見ているような藤堂の姿があった。
「………我儘で、泣き虫で、そのくせ気が強くて…、まぁ、お前に似てるかもな」
「はぁ?」
似てると言われると、なんだか微妙な心持になる。
「けれど、俺を一番愛してくれた人だ」
「そっか…」
藤堂の顔が見れなくなる。きっととても穏やかな表情をしているだろうから…。
きっと、それを見た自分は、また嫉妬してしまうだろうから…。
もしも、まだその人が生きていたら、今、藤堂の隣にいるのは自分じゃなくて、その人なんだろうと思うと切なくなる。
―――奥さんなんだから当たり前じゃん…。
わかっているのに、心に湧き上がる嫌な気持ちが消せない。それ以上は何も言えなくて、啓悟は無言で運転を続けるしかなかった。
広い霊園の駐車場に車を停めると、助手席の藤堂はすぐに車を降りてしまう。
墓参に必要なものはすべて現地に用意されていて、藤堂はそれらを取りに事務所へと向っていった。その背中を、啓悟は動けずにただ見つめていた。
やがて戻ってきた藤堂に声をかけられて啓悟は車を降りたが、その足取りは重かった。
俯いた啓悟の視界に、前を行く藤堂の足元が見える。その足がぴたりと止まり、啓悟も立ち止まる。
「どうした?」
「……なんでもない…」
「何でもないって顔でもないが…、気分でも悪いのか?」
藤堂の問いかけに啓悟が黙っていると、腕をぐいっと引き寄せられた。そのまま、腕の中に抱き込まれる。
「っ、こんなとこで何すんだよ…っ」
慌てる啓悟をよそに、藤堂は啓悟の身体をきつく抱き締める。
「何を思ってるのかだいたいの想像はつくが、間違ってるぞお前」
耳元で低く囁いて、藤堂は啓悟の身体を放した。
何事もなかったかのように墓前に花を添え、線香を供える藤堂の背中を、啓悟はただ茫然と見つめていることしか出来ない。
―――間違ってるって何だよ…。
車内での会話を思い出す。やはり亡くなった奥さんのことなんて聞くんじゃなかったと後悔してみても、すでにどうしようもなかった。
そもそも、この場に来るべきじゃなかったと、啓悟は今更ながらに思う。行きたくないと断ったなら、藤堂の事だ、無理に連れてこようとはしなかっただろう。
昨日の今日でまた逃げ出したなら、今度こそ藤堂は呆れるだろうか。藤堂の左手に巻かれた包帯を見て、そう思う。
「啓悟」
藤堂に名前を呼ばれて、啓悟は現実に引き戻された。手招きされて啓悟が近づくと、肩を抱かれる。
「佳純、今日はお前に報告があってきたんだ」
佳純(かすみ)というのが藤堂の亡き奥さんの名前であることはすぐに分かった。
静かに口を開く藤堂の横顔は真剣で、きっとそれほどまでに今まで、今でもここに眠る女(ひと)の事を大事にしているのだろう。
そんな藤堂にしっかりと肩を抱かれたまま、啓悟は静かに言葉を聞いていた。
「きっと、お前は何を改まってと笑うんだろうが、どうしてもお前には伝えておきたくてな」
少しだけ照れくさそうにそう言って、肩に回された藤堂の腕に力がこもる。
「お前がいなくなって、もう十年になる。それまで、再婚なんて考えたこともなかったよ。けど、大事な人が出来たから連れてきた。お前に似て我儘で、意地っ張りで、泣き虫で…、たぶんお前より、俺を愛してくれる奴だ。だから……、お前よりこいつを愛することを許して欲しい」
さらさらと風の音だけが響いていた。
待っていたところで返事が返ってこないことはわかっていたが、しばらくの間二人は動かずにその場に立ち尽くした。
「さて、帰るか」
「ん……。あ…れ?」
ぼろりと、啓悟の瞳から雫が落ちる。
―――何で俺、泣いてんだろ。
「どうした?」
「わ…っかんな……っ」
啓悟の意思とは関係なく、零れ落ちる涙が止まらない。と、ふと啓悟の身体がぐらりと傾いだ。
「っおい!」
慌てたように抱きとめる藤堂の腕の中で、啓悟が微笑む。
その微笑みに、奇妙な違和感が藤堂の胸に湧き上がる。あまりにも、亡き妻に似すぎていて…。
『ありがとう。よかった…』
「……っ!?」
啓悟の口から洩れた声に、思わず息が止まる。
それは紛れもなく、佳純の声そのもので…。
「………かす…み…」
低く名前を呼んでみても、返事はなかった。
藤堂の頬を涙が伝う。
藤堂は腕の中の身体をきつくきつく抱き締めた。
「と…どう…?」
やがて藤堂の名前を呼んだのは、戸惑ったような啓悟の声で…。
「すまん。もう少しだけ…、もう少しだけこのままでいさせてくれ…」
涙に濡れた藤堂の声に、啓悟は小さく頷いた。
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