逃亡者

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 夕暮れの空には黒い生き物が飛び交う。羽虫のような小さなものから、飛膜でもって滑空する蝙蝠、そして漆黒の鴉たち。橙色の空を眺めていると、点々とその姿を見ることができるのだ。自分はその空の下、三丁目という緑色のプレートが打たれた電信柱の影だった。この街を照らす夕陽は沈まない。何年、何十年、何百年と西の空に居座っている。そうして永遠に橙色の柔らかな光で、街をぼんやりと色づけているのだ。することも特段ないため、いつも夕暮れを眺めてはいたが、それは情動にはほど遠い無味乾燥な印象しかもたらさなかった。  確か、蝙蝠の大群が街を横断したあとだったと思うが、急におい、とドスの聞いた老人の声が聞こえた。 「誰か、呼んだか」 「喋れる奴なら誰でもかまわん。今、蝙蝠どもが飛んできただろう。どっちへ行った」 「確か南の方へ行ったと思うが」 「そうか」  その瞬間に真上で翼の音がして、見たことがないほど大きな鴉が飛翔したのが目に入った。おそらく声を発したのはその老鴉だったのだろう。しかしその老鴉は老鴉というには健康的すぎた。羽毛は黒光りしており、頑強そうな爪はどこも欠けていない。そして太いくちばしは、多少の傷があったものの鋭さを保っていた。悠然と老鴉は飛び去り、電線が小刻みに揺れているのが収まったあと、自分は大きく息をついた。  喋れる奴、と老鴉は言い、自分はそれに呼応した。だがそれは本来成立しなかったはずである。鴉同士が会話するというのは聞いたことがあるが、電信柱の影が別の電信柱の影と会話することはない。当然、鴉と言葉を交わすことなど電信柱の影である自分には経験がなかった。もっと言うなれば、通り過ぎる声に耳を傾けるばかりで、自分の声は誰にも届かないはずだった。そんなことはわかりきっていたはずなのに、なぜ自分は老鴉の問いに応えたのか。老鴉は自分の声が聞こえたのか。
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