老婆のはなし

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 それがね、そんな宿でも、あの頃は毎日のようにお客様で溢れていてね、それはもう、猫の手を借りたいくらいに忙しく、朝から晩まで働いたものでございます。とは言え、元が安宿でございますから、儲けというものは殆どなく、日々の暮らしをするので精一杯なお金しか、わたくしの手元には入ってきませんでしたの。それでわたくしは、ああ、いち早く、島内の観光事業の競争などには、到底参加できないことを悟ったのでございます。  それからは、細々と、ただお越し下さるお客様のために、わたくしのできることをして差し上げようと……。ええ? 儲けのない宿をどうして続けたのかって? それはね、わたくしには家族と言える者がありませんでしたので、どんな理由であれ、わたくしの住まいにわたくし以外の人間が寝泊まりすることが、そして、ほんの少しの間ではございましたが、会話なども交わしまして、気心知れた旧知の友のような感覚を味わえる……その時間が愛おしかったのかもしれません。また、旅立ちの日の朝などには、感謝の言葉なんぞも頂いたりして、わたくしはお客様のお役に立てていることが、この上なく嬉しく、生きる喜びを得たように思えましたの。可笑しいかしら? あんなに体に鞭を打って、寝る間も惜しんで働いていた日々が、生きる喜びだったなんて。可笑しいかしら。  それだのに……ああ、あんなことがあったから……  ご存知なんでしょう? あの日の、あの出来事を。  あれを境に、この島はすっかり寂れてしまって……いいえ、元の姿に戻った、と言った方が正しいのかしらん。「珍しい」だとか「絵に写すのに以ってこい」だとか、終いには「これを見ずして死ぬなかれ」などと大げさなことを、どこの誰とも知れぬ輩が宣って、それを聞きつけた本島の〝よそ者〟たちが押し寄せたけれど、本来、島の姿は左様でございました。
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