【それは甘美な毒】

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「伊織君」 放課後、教室の窓際でまどろむ少年の名前を呼ぶ。夕焼けに染まるグラウンドからゆっくり時間をかけて、視線を滑らせた。 「なあに、森野さん」 甘くとろりとした蜂蜜みたいな声。でも、それは毒だ。一度その声を聞いてしまえばたちまち虜になる。 伊織君に呼んでもらえると自分の名前が特別なものに思えて、もっと呼んでほしくなるんだ。 「このあと、時間空いてるかな?」 「空いてるよ」 「……屋上、行かない?」 たったこれだけの言葉で意図を汲み取ってくれて、伊織君はほろり、触れると呆気なく崩れそうな柔らかい笑みを浮かべこう言った。 「いいよ」 『いいよ』それが伊織君の口癖だ。友達から何を頼まれても、嫌な顔ひとつしないでいいよと綺麗な唇で肯定の言葉を紡ぐ。 その理由を尋ねると『悲しい顔をさせたくないし、それで喜んでくれるならいいんだ』と答えていたっけ。 だから『屋上に行こう』この誘いがどういう意味かも分かってるはずなのに、断らない。 「森野さん、行かないの?」 鞄を少しばかり華奢な肩にかけて立ち上がった伊織君に、不思議そうな顔で覗き込まれる。 「ううん。行こ」 ―――本来立ち入り禁止の屋上に行ってすることは、とてもじゃないけど他人に自慢できるものじゃない。 友達にも絶対言えない。秘密。
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