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 千絵のあっけらかんとした物言いに、由加里は愕然となった。抜け落ちた夫の陰毛を見ても、自分は間抜けだなんて思えない。太く縮れた真っ黒な毛は禍々しい雰囲気を放ち、いつも脅かすように由加里の視界に飛び込んでくる。  夫が用を足した後のトイレには、便座の上に数本の陰毛が乗ったままになっている。脱衣所には、おびただしい数の抜け毛が散らばっている。床と壁の境目、家具の隙間、洗濯槽――あらゆるところに突き刺さる陰毛。  そういった光景の数々が、由加里の心を蝕んでいく。 「わたし、旦那の抜け毛を見るのが本当にしんどくて恐怖で……」  事の切実さをわかってほしくて、由加里は真面目な顔で言った。 「この間なんて、冷凍室の引き出しから旦那の抜け毛が出てきたの。下の毛ね。なんであんなところに……。普通、毛が冷凍室になんて入ることないでしょう?」  千絵は即座に、由加里の言葉を笑い飛ばした。 「えー? そうかな? まあ確かに冷凍室はあれだけど、意外なところから陰毛が見つかるなんて、よくある話だよ。普通普通」  笑顔が、僅かに引きつっている。  千絵は意識して、由加里の話に取り合わないようにしていた。  今日千絵が由加里と会ったのは、夫への不満を笑い話に変え、日頃の鬱憤を晴らすためであり、間違っても他人の夫の陰毛話を聞きに来たわけではない。  千絵には、話せない。  由加里は認める。  誰にも話せない。  毛はそれほど個人的かつ、他人からすれば至極どうでもいい事柄なのだ。  由加里は千絵に、取り繕った笑みを投げかけた。「なんかごめんね、変な話して」 「いいよいいよー」  千絵の表情が、明らかに安堵の色をおびる。強張っていた肩から、力が抜ける。  ひとまず何か別の話題を探さなければと焦り、由加里は唐突に思い出した。 「そういえばさ、耳かきについてる白い綿、あるじゃない? あれなんて名前かわかる?」  千絵は一応思案顔をして見せが、すぐに諦め、「わかんない」と肩をすくめた。 「なんでそんなこと知りたいの?」   「この前ふと気になったの、今思い出しちゃった」 「検索すれば?」 「うん、でも調べるほどのことじゃないし……。それに知らないんじゃなくて忘れてるだけだから、調べちゃったらなんか負けた気がして悔しいの」 「何それ、変なのー」  千絵がからかい口調で言う。場の空気がゆるんだのを、由加里は感じ取った。
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