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「あんたの毛のせいだ」由加里は断言する。「あんたが毛深いせいだ」
「でも抜け毛なんて、自分の意思でどうこう出来るものでもないし」
毛について指摘されるなど、思いもしていなかったのか。
夫は困惑気味に言った。
「それに俺だけじゃないだろ。由加里だって誰だって、生きてれば毛は抜けるだろう」
「あんたはその本数が尋常じゃなく多いのよ」
「気のせいだろう。由加里が神経質すぎるんだよ。そりゃあ俺は由加里に比べれたら抜け毛は多いかもしれない。でもなあ、男は女みたいに毛を剃ったり抜いたりしないから、仕方ないんだよ」
「男だから女だからとか関係ない。自分の抜け毛くらい、自分でどうにかしてよ」
「どうにかって?」
「抜けたそばから自分で毛を拾う。家の中ではなるべく肌を露出しないようにする」
「何だよそれ、ひどくない?」
夫は頭を抱えた。
しかし由加里は攻撃の手を緩めない。
「七十万」
「は?」
「調べたの。七十万あれば全身永久脱毛出来るから。全身永久脱毛してきて」
「やだよ脱毛なんて。そんな金払えないし」
「分割出来るから。してよ、全身永久脱毛」
由加里は目の際を赤く染め、夫を睨んだ。
夫は悲しげに視線を落とした。
沈黙が、二人の間に横たわる。
「……ごめんね」
やがて夫が、ぽつりと言った。
ワイシャツの袖口が手首まで下りているのを確かめた後、尚も引っ張り下げる。己の体毛を、妻の目に触れさせまいとするように。
「今度の週末、ドライブに行こう」
朝食の席で、唐突に夫が言った。
出不精の夫が外出の提案をしてくるなど珍しい。由加里は驚き、咄嗟に「うん」と答えていた。
毛のことで言い争った夜以来、この瞬間まで、夫婦は必要最低限の言葉しか交わしていなかった。
夫はよほど勇気を出して、妻を誘ったのだろう。
「でも、なんでドライブ?」
「ほら、前に雑誌で見ただろう、道の駅グルメ特集。あれで紹介されてたロールケーキ、由加里食べてみたいって言ってたじゃん? 俺車運転するから、買いに行こうよ」
半年以上前の由加里の発言を、夫は覚えていた。そのことに、由加里は面食らった。基本的に夫は、人の話を聞かない性質だ。
結婚してから、夫が由加里の要望にこたえようとしてくれたのは、今が初めてだった。
夫なりに気を遣っているのかなと、由加里は考える。
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